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2021年10月09日

自分で自分を主張することができない人間が、自立することなどできるわけがない。全てが周りの環境で作られていると思い込むのは仕方がないことだ。「親ガチャ」というのはよくわかる。みやじいも一時期、すべて社会が悪い、親が悪い、むしろ自分以外の何かに原因と責任があるのだと思った。高校の時に読んだ本に、そんなことが書いてあった。ので、それに染まった。同時に、じゃあお前はそんな社会にどう戦いを挑むのか、という本も読んで、悩んだ。この前書いた市井三郎さんの本もそうだ。昔は「べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」という市民運動があって、その中心人物の小田実(おだまこと)氏の本も読んで、悩んだ。当時ベトナムが北ベトナムと南ベトナムに別れていて、北が社会主義国、南が資本主義国として、対立戦争していた。(自由主義とはあえて書かない。自由主義の対義語は社会主義ではなく、全体主義であり、専制主義であり、権威主義なのだ。社会主義は経済の言葉なので対義語は資本主義、封建主義経済、奴隷経済となると考えている。)

南ベトナムの政府に対して、アメリカが中心となって支援していた。北ベトナムは今は消滅したソビエト社会主義国連邦(ソ連)が支援していた。(細かなことはいろんな本があるので読んで自分で考えて欲しい。)

1965年にアメリカが本格的に軍事介入して、北爆(北ベトナムへの空爆)を始めた。その爆撃機が沖縄の基地から出撃しているということで、反戦平和の憲法を持つ日本がベトナム戦争に加担しているとして、反対するという市民運動が、べ平連の活動だ。

小田氏は基本的に社会主義思想の持ち主で、その価値観で本を書いていた。資本主義国の日本国、日本の経済体制を批判していた。

本を読んで刺激を受けた。思想を深め、仲間を集め、すぐに行動を起こせ。という内容は、当時の自分にはあまりにも強烈すぎて、そんなエネルギーも思想も、英雄的な行動をとることは自分にはできないと、自己否定した。

自分の力に自信も持てず、自分らしい価値観を持つことも出来ず、自己主張も出来ず、何一つ自分の良さも価値も感じることも出来ず、自分を情けない存在だと自分が見下していた。誰かに救って欲しかった。高校生の時に、友達に連れてもらって初めて教会に行った。聖書教会だ。小さな教会だった。 聖書の話を聴いた、主にルカ伝だったと思う。もう内容は忘れているけど。高校生のギターで聖歌・讃美歌を歌った。美しく優しく良い歌だった。「慈しみ深きイエスは」という歌だ。話しを聴いて、夢の中で神の光を感じたこともあった。が、最後の最後に神を信じ切れなかった。信じない者を救わないという愛が狭い愛だと感じ、それは神ではないという思いが強かった。それでも半年後、高校3年生の時に家出をした。7日間の1人旅だ。ひたすら歩いた。歩き疲れ、最後にたどり着いたのが、この教会だった。救いを求めた自分、それ以外何もできない自分に、みじめさだけが残った。

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