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2021年10月11日

なぜ、自分の経験を語るのか。それは確実な事実が自分の経験からでしか理解することができないからだ。経験とは体験した事実に対する自分の内面的な意味づけをしたものだ。意味とは、体験で感じた感情とそれ以後の考え方の変化、感じ方の変化、行動の変化の基になるものだ。

ひとつの詩が雑誌に掲載されたという事実と体験に何を感じたか、それによってそれまでの考え方や感じかた、行動がどう変化したかが、自分にとっての体験の意味づけだ。変化が起こらなければそれは経験ではなく体験したという事実でしかない。(ということに、「経験」と言う言葉に意味づけしているということでしかないのだが、、、(笑)言葉の意味づけも同じだ。どの言葉を使うかは、その意味をどう理解しているかによる。本当はその本人でしか意味は分かっていない。ひょっとすると本人も分っておらず、あいまいなままで使っているかもしれない。)

わかり合うということは難しい。正しく伝えるということも難しい。コミュニケーションは難しい。

コミュニケーションとは、伝えあうこと、受け取り、理解し、確認し合って、わかり合うことで、喜びや満足感を得ることだとすると、生きる意味の一部はここにあるのかもしれない。

生きる意味は、感じることでしか取得することはできないように脳の構造が出来ているらしい。ある出来事(体験)に対して、感情が生まれ、脳内ホルモンが分泌され喜びや満足感を得られ、納得する。そうした一連の流れ(脳の構造、システム、シナプスのネットワークの繋がり方)が、生きる意味という言葉で表現されるものだ。

逆に、悲しみや苦しみや退屈や怒りなどといった、ネガティブな感情も同様に生まれる。それは生きる苦しみとか、人生への絶望という言葉で表現される状態になる。

何かの出来事(体験)に対して、個々人の個性的なシナプスのネットワークをイオン電子が流れて、様々な神経細胞を刺激し、脳内ホルモンを分泌させ、そのホルモンを受容した細胞が「納得」する。(それが脳のどこの細胞なのかは、みやじいはまだ知らないが、どこかに最終的に反応し、活性化するか、沈静化する場所・エリア・細胞があると思う。) 「人間らしさ」という言葉を現在の日本人がどう使っているかというと、論理的思考ではなく、感情的優しさ、他者への思いやり、手助け、といったものだと思える。例えば、お腹が空いている人たちに自分の持っている米をより高く売ってより多く儲けることをしている人よりも、お腹が空いている人に自分の持っているお米を分け合って助けるという、自分のためではなく他者のために自分の持っている物を分け与える、または他者の気持ちを考え行動する、といった人や行動を「人間らしい」人だということが多いです。米を持たずお腹をすかしているのは本人の責任だというのではなく、助け合うそれが人としてあるべき姿だというのが現在の「人間らしさ」の言葉の意味だということだ。

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