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2021年11月15日

これまでの運動、クオークの集合で陽子を創る、電子のやり取りで結合し分子として大きくなる、さらに異なる分子が結合しさらに大きくなり、単なる電子のやり取りではおさまらない複雑な新しい物質を創り出す(これも新しい運動形態である)とは、さらに質的に大きく違う運動を物質の塊の分子は始めた。それが自らのコピーを創り出すという運動だ。生命体と呼ばれる運動だ。

有機の分子は複雑に絡み合い、アミノ酸という物質を創り出し、そのアミノ酸が複雑に絡み合ってできた物質を、熱エネルギーを使って自らのコピーを生み出すものとなった。エネルギーを取り込み自分のコピーを造り増えて行くという運動形態。物質としての運動が何らかの意思(コピーを造る)を持ったような運動となったのだ。それが現在の人間が言語として「命」と呼んでいる運動形態だ。

命は炎とよく似ている。木に火をつける。炎は木を燃料として燃え上がる。炎は光と熱だ。自らの熱で燃え続ける。燃料の木が燃え尽きるまで。新しい木を加える。炎はその新しい木に移り燃え続ける。その木が燃え尽きる前にさらに新しい木を放り込む。すると炎はその新しい木にさらに燃え移る。燃料の木は次々に新しく変わっていく。が、炎は消えることなく輝き続ける。

炎の基となるものはまったく新しい木であり新しい物質である。しかし、この炎はひとつのエネルギー・熱と光として存在し続けているのだ。木が新たなものとなりその種類が変わっても違う炎になったとは言わない。連続している同一の炎として私たち人間は認める。

そうそう、ギリシャの太陽の光で点火された炎を聖火と呼んでトーチと言う何百もの松明で繋ぎ日本に持ってくる。客観的に見れば燃えている材料・燃料はまったく異なるものなのだが、炎と言う現象、燃焼と言う運動は繋がって一つのものとなっている。消えないこと。途切れないことが大切なものとなっている。それは、ひとつのイベントが終わる時、終焉を迎え消えて行く。まさにひとつの命のように。

そういえば、1200年も燃え続けている炎がある。比叡山延暦寺の燈明(不滅の法灯)だ。西暦788年から一度も絶えることなく輝き続けている灯りだ。平安への祈りという運動の命といえる。

そうした運動のエネルギーの連続体が生命体だ。それがどこへ向かうのかを考えるのが哲学であり、あらゆる学問だと思う。真善美が哲学の課題だと言われてきた。真理・倫理・美術。真理は人間とは何かという問いであり、倫理は人間としてどう生きるべきかを問い、人間として何を生み出すのかと言うのが美術・芸術だと思う。

音楽が古代ギリシャの学問の中心の一つになっていた。音で感じるものに大切な何かがあると人々は思ってそれを追求し、歌を歌い、楽器を奏でた。言葉ではない何か、言葉では言い尽くせない何かが音の世界にあるのだと。

確かに、悲しい音、切ないメロディー、元気を生み出すリズム、なぜかは分からないままに音楽を聴いて泣いてしまうことがある。

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