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2021年11月16日

音で物質の運動が変わる。まるで小学校で習った共鳴だ。そういえば共感も相手の心の揺れに合わせてこちらの心が揺れるものだ。心と言う複雑な運動を、相手の表情や、まなざし、しぐさ、話し方、声、そして話す物語を聴き見、観察することでこちらの(自分の)心が共鳴するように複雑に反応するというものだ。これこそもっとも複雑化した物質の運動だ。と、ドライに冷めた感じで書くのはどうなのだろうと思ってしまった。

人間は感じる“こころ”というモノを持っている。これをどう発達成長させていくかが人間の課題なのだろうかと思ってしまう。それは、ドライに理解することなのだろうか?

自然科学的に構造や反応の仕方をデーターで分析証明するというアプローチで物質としての自己理解を行っていく。こうみやじいも考えているが、一方で、人間として今現実に生きているものとして、“こころ”が不満を感じている。“こころ”の発達、共感の発展はドライに考え理解することか。面白いものだ。

そんな風に科学的に説明するように言われても、“こころ”は納得しないみたいだ。「神」はいないと理解は出来ているが、生きる意味や死の恐怖や死後どうなるのかという不安という心の動きは、いくらそれが脳内物質の分泌によるものだという現在の脳科学の知識だけでは、“こころ”はまだまだ納得しないみたいだ。

なんなのだろう、“こころ”はもっと豊かであって欲しいという気持ちがある。豊かさ値は何かと言う問いが新たに生まれてくる。面白い。問いの終わりがない。

これまで「神」について、「神」は居ないと書き続けて来た。おそらくほとんどの人は、実は元々「神」が居ると信じては居なかったと思う。“こころ”の不安や悲しみを和らげるために「神」を創った。それは全員が同時に行ったものではない。一人の誰かがおそらくパニックか幻覚や幻想を体験して「神」の存在を叫び始めたことが発端だとおもう。

そして、周りの人はその「神」の存在を信じた、、、のではなく、「神」が居たとしたら日常生活がうまくいくと思うようになった。日常生活の中でうまくいかないこと、仕事で失敗したことや、友人と喧嘩したしたこと、いじめにあうこと、思うようにことが進まないこと、などなどが、「神」の機嫌が悪いからだということにすれば、イライラする“こころ”をなだめることができる、人を恨むことや、羨むことや、逆に自分を責めてしまうようなことも、すべて「神」のせいにすることでそうした苦しみから解放される。だから、「神」を居ることにした。それは、自分一人がそうするのではなく、周りの人たちもそう思っているということを知って確信にした。「神」は居る、居た方が丸く収まると。

こうした考えは、実は科学にも言える。何かの本で読んだが、すべては「仮説」だと。ある仮説が正しいとしたら、次の仮説が立てられ、その仮説が正しいとしたらさらに次の仮説が立てられる。仮説はいつかすべて正しいものとして信じられる。地球の周りを星が動いているのは、地球が全ての中心に存在するからだと信じていた。同様に今は、ビッグバンから宇宙が始まったと信じている。信じる、これは科学も「神」も同じだ。

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