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2021年11月20日

“こころ”と感動という切り口から、その誕生を考えてみる。

朝陽が昇るのを見て、生きる力を感じるのはなぜか。なぜ夕陽を見て感傷に浸ってしまうのか。この感情は何かの経験によって育まれたのか、何か教育的な情報を知らない間に埋め込まれたのか。

“こころ”はおそらく単細胞には無い。自らのコピーを増やす増殖のための明かりや熱、Ph(酸とアルカリ)、酸素濃度などを感知したり、動物ならば捕食するための感覚、その感受した刺激への反応、逃げる・遠ざける・近づく・捕食するなどを行う。これには芸術性は見えない。ミミズになると、これは美味しい土とか感じるのだろうか?

そうそう、仏教でも植物は逃げたり近寄ったりしないから“こころ”や意思が見えないから食べて構わないみたいな教えがある。動物は捕まえるとそれを拒み逃げようともがく、から意思があるので殺してはならないし食べてはならないという殺生をしないという動物にまで広げた博愛主義の教えだ。それは、動物すべてに仏性(尊い仏様になる素地)があるという教えだ。その後、さらに生きとし生ける者全てに仏性があると言われるまでその博愛主義を広げた。

ここで確認しておくと、こうした他の生物にまで自分と同様の尊厳を与えるような思考をする動物は、残念ながら人間しかしない。いくら、動物にも愛があり、人間以上に子供を守り育てる行動をとる動物がいる。(例えば自分の体を生まれた子供たちの餌にするような虫、ハサミムシは、秋に卵を産みそれを守るために覆いかぶさり、さらにはカビが生えないように一つ一つ舐めてきれいにしてあげ、空気を当てるためにその位置を変えたりして世話をして春を待つ。春になると卵が孵化し子供たちが生まれる。そして子供たちはその母親の体を最初に食べる。母親は拒むことなく自分の命を子供たちに捧げる。)

が、このことを理解し、共感する動物は人間しかいない。他者を理解し共感できる“こころ”をもっている生き物、存在は人間しかいない。ハサミムシの生態の話を知り、衝撃的な感動を感じ、これを他の人みんなに知ってもらい共感し、何かを感じ取って、人間として生きて行くための何か大切なものを持ってもらいたいと思う“こころ”は、人間にしかない。そのことだけは、冷めた頭で理解しておきたい。なぜなら、“今”この話を知ってからは、冬に石の下で卵を抱えて守っているハサミムシを見たら、今迄とは違う対応を必ず人間はするからだ。きっと、そっと石を元にそっと戻してあげるはずだ。

これが、“こころ”の働きだ。人間らしい、求められる「人間らしさ」だ。人間は、「人間らしさ」を実現するために生きているのかもしれない。えっ?ということは、人間は“こころ”を発達させることを目標にして生きているということ?(う~ん、こういう考えもあって良いかもしれない。宗教家はある意味、「神」という言葉を使って人間らしい“こころ”の完成と実践を求めているのかもしれない。・・・いや、違う。“こころ”は「神」の意思の中にあるのではなく、創って進化していくものだから。

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