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2021年11月23日

“こころ”は、「辛さ」や「不幸」を感じることから始まる?、、、始まるのかもしれない。

これは、もしそうだとすると、もっと生き延びたい、満足したい、生き生きと生きたい、という生きる欲望の現れ方のひとつなのかもしれない。現状が辛く苦しく生き辛いと感じる時、その“こころ”の奥には、生きたい!という思い、欲望、本能があるのだと思う。フロイトが言っていたリビドー(性的エネルギー)がこれなのだろう。自分のコピーを残すというDNAの宿命的な活動だ。存在することがコピーを造ることと同じなのだ。みんな良く生きたいのだ。長くいきたいのだ。生き生きと生きたいのだ。自分のコピー、性を持つ動物ならば自らの半分と良き他者の半分寄せ集めて、より良い個体として誕生させ生存させていきたいとDNAに刻み込まれているのだ。(LGBTは、この視点とは別の、社会的問題なのでいつかどこかで考えて行こう。)

農耕や牧畜や漁業で食料が安定化され、建築技術や街を創る仕組みが出来てくると、安全安心が定常化する。すると、それ迄は自然との闘い(災害や猛獣に襲われる)死が普通だった生活から、死が病気や怪我(虫や蛇など小さな生き物などによるもの)になり、農作物の不作による他部族との争いでの不幸が辛さの基になる。地震や火山の噴火などといった直接的緊急的危機ではなく、少し緩やかに時間のかかる出来事が辛さの基へと幅がひろがる。その分、“こころ”は幅を持ち感じる質も色合いが変わる。予測も出来るようになる。するとどう対応するかという思考も生まれ、“こころ”の不安への向き方が変わる。

さらに、社会が発展し医学が進歩するとより安全に快適に衛生的になると、一層死は普通の生活から離れ、私たちが辛いと感じる内容が変わる。より繊細なものまで気になるようになる。

例えば、人の眼が気になる、人のひそひそ話がきになる、既読されないことが気になるといった、直接死に関係の無いものにまで“こころ”が感じてしまうことだ。おそらく、昔は他人の眼や噂話などは気にしていなかった。それよりも生き抜くことが大変だったからだ。時間をかけて、「ひょっとするとあのことがいけなかったのかな?いやあの時あれをせずに無視したことを恨んでいるのかもしれない。無視したのじゃないのだけど、、、きっとそれを誤解して怒っておるのだ。」といった思考にかける時間などなかった。そんなゆとりはなかった。

・・・現代は、生産性が上がりこうしたことを考える“ゆとり”の時間が生活の中に生まれるまでになった。文化といって良いのかもしれない。こうした文化は貴族文化や武士道など、過去は権力と富を持っていた階層・階級の中で生まれ育まれてきた。それが、生産力が増大し庶民に広がってその民族の文化となった。芸術の誕生と発展と同じだ。“こころ”は、不幸から始まり、それを克服する活動(生産活動・発見と発明・交流など)、その集大成が祭りだ。京都の祇園祭や博多の祇園山笠、青森のねぶた祭りなどは、疫病退散、死者の弔いなどが起源だ。不幸を感じる“こころ”を前向きになせるための、爆発的な華やかな生のエネルギーの発散が祭りだ。

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