スポンサーリンク

2021年11月28日

“こころ”は、繊細になり、相手のことを感じるようになった。その感じ取った感情を自分の評価に向けてしまい、「悪く思われているのじゃないだろうか」「嫌われているのではないだろうか」「きっとそうなんだ」「私のどこがいけなかったのだろう」「どうしたらいいのだろう」「こんな自分は大嫌い」という風に、自己否定となり自己嫌悪に流れてきているのが、現代日本の若者の“繊細な”“こころ”となってきているように見える。そんなニュースを多く見る。(実際はどうなのだろうか。報道の偏りがあるのかもしれない。)

繊細とは、上記のような内向的な“こころ”になることなのだろうか。そして、同時に一人ひとり自分の行動がぎこちなくなって来ることなのだろうか。

一方で、通り魔的な“誰でも良かった殺人”が毎月のように発生している。SNSでの個人攻撃が行われていて自殺する人も出続けている。いじめも無くなっていない。

“こころ”は繊細になって、「良くない方向」に向かっているのだろうか?

「良くない方向」と書いたのは、ポジティブ・ネガティブの観点で表現した言葉だ。いろいろ考えてみて来て、人間が何に一番価値を置いているのが、やはり生き物として生き続けるという意思、ちまり「命」を大切にすること、その「命」を未来永劫つないで生きて行くことだと思う。聖火のバトンタッチのイメージだ。その方向に向いているのがポジティブで、逆行するのがネガティブだとした。

?を付けたのは、“こころ”がネガティブな方向に向いているのかそうではないのかという迷い。そして繊細になることが、ネガティブなことで、自己否定や他者攻撃するという方向に向かっているのだろうかという疑問だ。

いじめは、誰かに対して、ぬけがけは許さない、一人だけいい思いをするのは許さない、あなたの考えや行動は良くないという批判から、批判に終わらずそういう考えや行動をするあなたの存在を許さないという非難にまで変節したものだ。否定→批判→非難というレベルアップだ。

その感情に感染して(感情は感染するというのは、EQ理論のひとつだ。)自分で自分を否定し批判し非難し耐えられなくなり自死してしまう。繊細な“こころ”。

いじめは、良い思いをしている人を羨ましく思い、今自分が良い思いをしていないということを素直に受け入れられていないという感情が、妬みとなり嫉妬という恨みの気持ちまで絡めて相手を良い思いの状態から引き釣り落とすという行動を起こしているということだ。問題は、そうした“こころ”を否定するのではなく、そうした“こころ”がなぜ起きるかという問いをどう解いていくかということだと思う。

今迄は、“こころ”とはそうした悪い側面を持っている、仕方がないものだという風に言われてきた。それでは、互いに足を引っ張り合うということが続き、みんなが良い思いをすることは決して実現できない。そうした“こころ”を持つことが人間らしいのだ。諦めるしかない。そう言われ続けて来た。みなほとんど全員がそう信じ込んでいる。

スポンサーリンク

Twitterでフォローしよう

オススメ記事