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2021年11月29日

“こころ”は、わがままで他者の幸福を羨み、妬み、嫉妬し、幸福な他者を引きずり落とす、それが人間だ。確かに妬み、嫉妬、恨み、逆恨み、蔑み、おもねり、卑屈、そうしたネガティブな感情はあるし、誰しも持っていると思う。自分にもある。だから、他者を攻撃し、他者の幸福をズタズタにし引き釣り下ろすというのは仕方がない、そういうモノなのだと認めろ、きれいな“こころ”を求めるのはやめろ、きれいな“こころ”を持てと押し付けるな、きれいごとはやめろ、泥臭く生きろ、それが人間らしいあり方なのだと、叫んで終わらせるのは、、、。

確かに、人間の醜さを認めろというこうした考え方に対して、この前までは沈黙しかできなかった。だが、「希望の歴史」を読んで、そんな風に悪罵をあびせるような考え方も妄想であり、正当性は無いという考え方が、歴史学者から科学的な事実を持って反論していることを知って、勇気づけられた。自分一人ではない、妄想なのかもしれないが、“こころ”は進化してきているし、今後も進化していくという考え方に自信を持った。

こうした概念、考え方の基本的ベースとなっているものを、パラダイムという。パラダイムは時代に時代によって異なり、時々大きく覆される。「神」の存在、天動説と地動説、原子の発見、進化論、相対性理論、マルクス理論、心理学による無意識、などなど。

「希望の歴史」は、その一つといえる。人間は、人間の“こころ”は、そんなものではない。利己的だと言われ続けてきたが、そうではなく、他者を助ける優しさ思いやり友情、何よりも愛があるのだと語っている。

確かに人間全員が友愛に満ちて他者を助ける気持ちであふれているかといえばそうではない。が、生きるために必死に「利己的」に生きて来たが、生産力が上がり“ゆとり”が生まれて来て、「平和ボケ」した“こころ”の中に友愛が育まれ、他者を助けようと自らを上げだす行動を取る“人”へ成長・発展・進化してきた。それは、富を蓄積できるようになってから1万年、まだ多数者にはなっていないが、必ず「平和ボケ」した繊細な“こころ”を持った人間が世界の中で多数者になる。あと何年必要なのか?これはまた別の問いだ。後々考えてみたい。

なぜなら、人間の“こころ”は、動物と違う方向で、他者の“こころ”に共感し理解し、他者を自らのように尊重し助け、協働して自然界をも人間社会として作り変えて行くように生まれ、育ち、成長し、進化してきた。それが現在までの130億年の分室運動の方向性なのだ。と妄想する。(笑)

人間が他者を自らと同じように大切にし、病気や怪我で生き辛い人々を助けるように仕組みが創られてきている。病院(医師や看護師、薬品、医療技術、医療機器、病院施設等々)や救急救助(救急車両・ヘリコプター・道路交通法などの法律)、それに経済的な保険のシステムだ。そして、貧困に対しても生活保護といった法律による経済的対応。さらに今、LGBTQといった、性的マイノリティに対する法律による平等の保障などなどだ。

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