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2021年12月03日

“こころ”は、なぜ宗教を創ったのか。それは以前書いたが、「原因」と「結果」を結び付けて納得するという思考回路があるからだ。モノに顔を見つける。何か存在するという気配を感じる。結果=現象。その原因は何か?と考える。何かが無いと顔がそこに見えるはずがない。わかった、そこに自分と同じこちらを見つめるモノがあるからだ。魂がそこにあるのだ。これが顔が見えるという現象の原因なのだ。なるほど分かった!納得した!

以上終了、という認識の流れだ。最後が納得する。安心する。ということで終了する。疑問と不安の解消。それが思考回路としての“こころ”の作用だ。

そこに魂があるのなら、つまり生きているのなら、自分と同じように生きているのなら、自分と同じ気分・感情・欲望を持っている。お腹も空く。何かを食べたいと思う。何かうまくいかないと怒る。かんしゃくを起こして破壊する。そうかぁ、大風や落雷や大雨や地震や噴火は自然の中にある魂の怒りでありかんしゃくなのだ。なるほど、そうだったのか、そういえば確かにそうだ。納得!“こころ”は、自分を自然界に転写する。そこに自分と同じ“こころ”をもったモノ=魂が存在する。だったら、自分と同じようにそれを大切にしなければならない。信仰が始まる。信仰は自分の“こころ”への信仰なのだ。

人間は、転写した自然界のモノを通して、自分の“こころ”を信仰し、大切に扱い、敬い続けてきたのだ。いつしか、自然界の山や大樹や巨岩から、実際には存在しない動物と人間が一体化した形(像と人間のようなガネーシャ・馬と人間が一体化したケンタウロスなど)に変化発展していく。さらに、それはついにはオリンポスの神々のように人間の姿になる。そして、魂だけが幽体離脱するように透明な人間の形をしたカゲロウのような存在・光を背にした人間の姿に変化した。さらにさらに畏れ多くも、現在生きている人減が

私は神であるというものまで生まれて来た。神は、その姿も及ぼす力も、大切にするものも、そこから導き出される人間の生き方(倫理)も、変化し発展し深化してきた。

「神」が、人間の魂=“こころ”の転写だとすれば、神の存在の在り方が変化し、発展して進化しているとしたら、それは人間の“こころ”の変化・発展・成長・進化を表している。モノの中に自分と同じように怒り悲しみかんしゃくを起こすという存在から、人間に豊作を与え、生み育て地に満ちることを願い命じる思いを持つ存在になり、自分の富を他者に喜捨せよと教える存在になり、右の頬が打たれたら左を出せと争うことを止めなさいという愛を語る存在にまで変化し、発展し、進化してきた。進化してきたのは、人間の“こころ”なのだ。僅か4万年で。(4万年を僅かと捉えるか4万年もかかったと捉えるかは、個々人の意識の違いかもしれない。)そして、おそらくこれからも、“こころ”は変化・発展・進化していくだろう。

どう進化していくか。どんな風に進化していくのか。人間は、神に向かい人間社会の未来をお願いしてきた。神が居なくなった現在、どうやって進化させていくのか。新しい問いだ。考えて行きたい。

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