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2021年7月23日

気分は気まま。昨日文章を書いて、その続きを書こうという気持ちになり、テーマや大まかな構成みたいなものを頭の中でアイデアを巡らせていて、面白いなぁ、楽しいなぁ、明日は文章がスラスラ書けるなぁと思って寝て起きたら、どうでもいいという気持ちが今は広がっている。そんないい加減さをモーニングコーヒーを飲みながら“味わって”いる。

そうだったなぁ。昔はちゃんとしなければという気持ちが強かったなぁ、、、そうなんだよね。何かをやらなければ、やり遂げなければという感情、欲望、意欲、意志が無くなってしまっている。年を取る、老いるとはそういうことなんだろう。脳の器官としての刺激物である脳内物質・脳内麻薬の分泌が少なくなっていくのだろう。衝動がない、欲望が無い、和やかで穏やかな感情にしかならない分泌量なのだ。これは、脳として死に向かうための準備なのだろう。肉体として、そういう死に方をデザインしているのだろう。

が、そしてまた(肯定と否定は継続し、感情はエンドレスに次のステージに進む)、何か違う臓器や脳が反応して、何か別のホルモンを分泌し、新たに脳が刺激を受けて興奮し活発化し、考える。このまま穏やかに死を迎えるままで良いのか?と。

結局、昨日書いたように、「脳という器官は問いを立て、解を求めるのだ。人として『どう生きて行くか』と」思考する部分は興奮し続ける。

そうなのだ!余生をどう生きるか?!

生き生きと生きるのか、枯れ葉となってしぼんでいくのを受け入れるように欲動をなだめ、穏やかさを価値として生き延び、死に覆われるのを待つのか、を選択するのだ。

選択を通して、ヴィクトール・E・フランクルの問い「人生があなたに問いかけてくる」に対して、自分の生き様として差し出して証明して行くしかないのだ。(すぐに、『そこまで大げさにしなくても』という感情がささやく。感情は面白い。)

人間は、生き方を知らなくて生まれてくる。「生き方」というものを必要とする生物になってしまった。そういう進化を遂げてきた。意図してこう進化したのでは無いが進化してしまった。ましてや「死に方」なんぞ知らない。それをも探し求める生物になってしまった。

生物は、動物(他者を活動エネルギーの基として摂って食料として生きる生物)になり、生殖細胞を放出するだけから、大量の卵を生み出すことになり、その卵を守る種となり、体内でふ化させ出産するレベルとなり、さらにヒナに餌を与えるようになり、数か月から一年授乳し育て、数年間集団の中で育成するようになり、人間は社会という特別な世界に生きて行けるまで大人になるまで育児・育成・教育・経験を支援するまでになった。

それでも、生きる意味(生まれた意味)生きて行く意味・目的を探さなければならない。 どう生きるかを誰かに教わらなければならない。生き方だから、ロールモデルが必要なのだ。ロールモデルの後姿から学び取る必要があるのだ。


「みやじいのひとりごと」は今後も不定期に掲載予定です。

どうぞお楽しみに!

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