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2021年7月27日

「自然の弁証法」に「人間は自然に自らの活動を刻印する存在となった。」という文がある。今一番読まれている新書の「人新世の『資本論』」(斎藤幸平:大阪市立大准教授)につながる考え方だ。というより、斎藤先生が哲学者・経済思想研究者として引き継いだと言える。

「人新世」とは、地球の歴史を地層学的に捉えた時、地層の一番上、表層は人間が創った物に覆われているというものだ。何億年も後に地層を調べたら、人工物であふれるように埋もれて岩石化している層となるというものだ。それが150年くらい前の示唆だ。

大学生の時に、この本を読んで、ここに書かれているように自然史のレベルで科学の視点から人間の思想、価値観、心理、個人的苦悩、さらにはどう生きて行くべきかという哲学・倫理というものを考えて何らかの答えを探していこうと思った。それは、3000年くらい前の地中海ギリシャの人びとは「哲学」と呼んでいた。哲学(知を愛す・思考を巡らし真理を追究するという行為)をしていたという動詞的に理解するのが近いと言っている学者も多い。生物学も分子生物学に光が当てられた時代でもあった。何でも、物質論的に、イコール科学的に考え行こうという雰囲気があった。

社会の在り方、歴史、経済、政治もこうした視点で捉えるというのが「史的唯物論」という考え方で、当時の学生運動の基盤となっていた。その影響も受けた。政治にも関心が移ったが、そうした学生と議論もしたが、彼らの言葉からは自分で悩み考え自分の思想として歴史や政治を語るというのではなく、どこかの本に書かれている未消化の言葉の羅列という感じしか受けられず、ノンポリ(ノンポリティカル:政治に無関心な人)と活動家の中間的な存在で児童文学と詩を読み書いて宗教にかぶれたり一人旅したりしてさ迷った。

こうやって書いてみると、一つのことをテーマに選んで自分の考えをまとめ主張するということ、論文を書くということがいかに大変なのかということに気づいた。“ひとりごと”の最初に書いたけど、感情は瞬間で移り変わっていくので、その感情を基に書いて行くこと、感情をもとに考えを一つにまとめるということが難しいということだ。不可能だ。そして、前回書いたけど、どうやらそれが腸内細菌の状態で揺れ動くらしいということも知った。感情や思考がどこで生まれるものかも不定で、脳が司るというのも怪しいものだ。

で、行きつ戻りつ、脱線しながら、人間というものについて書きながら考えをまとめて行こう。・・・なぜ?・・・そうなんだ!(最初に戻った!)この“なぜ”が付きまとうのだ!“なぜ”書くのか。“なぜ”考えをまとめるのか。・・・ほんと、なぜなんだろう?もう、子供も育てた、孫も出来た。種としての役割は終わったのに、なぜ?

・・・そうだった!これもこの前書いて考えた。(グルグル回っているだけ?) 死ぬまで生き続けて行く、つまり、脳という器官が働き続けるかぎり、この問いが生まれ、死ぬまで生きて行く(生き抜く)ために「必要」なものなのだ。それが、日本語で言う「生きがい」なのだ。


「みやじいのひとりごと」は今後も不定期に掲載予定です。

どうぞお楽しみに!

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