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2021年7月29日

元にもどそう。どう生きて行こうか悩みながら、答えを出す前に、60歳を超えて、そろそろ寿命に近づいてきている年齢まで生きて来てしまった。後はどう死んで行くかを考えてしまうようになったのだ。生き方の正解を探していたが、どうやらこれが正解だと言えるひとつのものは見つからない、無さそうだ、無い。・・・正解を見つけられない自分みたいな人間にとって見つからないものは「無い」ものと言うしかないのだ。自分自身の認識の世界の中で思考し判断し行動するしかできないのだから、見つからないということは存在しないものだと認識するしかないのだ。それは、信じれば存在する神や仏の世界の対極のものなのだ。信じられる者には存在するが、信じられない者には存在しない。それが“本当”の「世界」・「社会」・「世間」であり「愛」・「慈悲」・「真理」なのだ。それらはすべて、一人ひとりの個々の脳の認識の限界の中で、一人ひとりが脳の中に構築しているのだ。そして、それは個々人の知識と経験の集合体なのだ。他者から見ればそれは「妄想」でしかない。死は、その「妄想」の中で「納得」して迎えるしかない。死は未知なもの、未経験のものなので、恐怖や不安を感じてしまう。その不安をどう消していくか。老人にとっては、その感情をどうマネジメントするかが最大の課題となっている。

宗教を信じるのもそのためだ。死後、天国や極楽の“あの世”に救われる。あの世は、空腹はなく心地よい音楽が流れ心が穏やかになる香りのそよ風に包まれるという世界、なんという日々が暮らしやすい(暮らす=生きる)世界なのだろう。そこに死んだ後に行くのだ。そして、死んだ後からそこで暮らし生きて行くのだ。すごい考え方だ!

空しくかなしい考え方と思ってしまう。中世の飢餓状況や殺し合いの戦争の世界で生きていた人たちには救いとなるありがたい思想だったのだと思う。現代世界の中で、暮らしやすい社会である日本という社会の中で生まれ生活している者にとって、そういうあの世(死後の世界)の「妄想」は、必要ない。

そう思わなければ現実を生きて行くのが辛い社会だったことを考えると、何かかなしみが生まれる。死んだ後に極楽で生きて行くという空虚さ。そう思わざるを得ない人をいとおしく思う。現在の日本に生まれて生活できていることに感謝する。感謝する相手は誰だ?神か?仏か?絶対的存在か?両親か?この感謝の感情はどこから生まれてくるのか。

今生きていて、そこに苦痛が無く、満足している状況だから生まれている。死んでいたら、感じることはできない。苦痛があれば意識はそちらに向かう。苦痛があれると何かを考える余裕はない。空腹を満たすために食べ物を必死に探す必要が無く、誰かが命を奪いに来ることも無い。暑すぎない、寒さで凍えることも無い、それなりに快適な空間で、それなり満足しているから、考えることも感じていることも認識することが出来るのだ。生き延びるためにそれこそ必死になることもないのだ。「衣食足りて礼節を知る」はその通りだと思う。世界には、約13億人の人が貧困の中で暮らし、生きている。その人たちに比べると申し訳ないほど、豊かだ。何かをすべきなのでは?!、、、感情が乱れる。  以上

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