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2021年9月19日

ついでなので、「死」との向かい方について妄想してみよう。

浄土真宗では、「死」をまさに人生の「本番」のようにとらえていると思っている。真理はわからない。浄土真宗の偉いお坊さんに尋ねるしかないが、そんなお坊さんとの繋がりがないので確かめることができない。が、浄土真宗の親鸞の教えは、「死は避けられないことは知っている。だが死後のことが気になって怖くてたまらない。どうしたら良いのか」という悩みや迷いを持つ人々に、「死後の世界のこと死の問題は、すでに阿弥陀仏が解決した。それを信じろ。信じることで死に悩ませられることなく、今現在の生をひたすら生きなさい」というものだと理解している。悩みはすべて阿弥陀が解決している。

今をひたすら生きなさい。仏のために、極楽に行くために何か善いことをしなさいとは言わない。ただ、ひたすらすがれ、私の名前(阿弥陀仏)を唱えろ。そうすればすぐに近くに行って、悩みや不安を取り除く。全ては解決してあると信じろ。だから、日常をひたすら生きろ。・・・これが、親鸞の言う浄土真宗(一向宗)の教えだ。

死の問題が解決されている。全ての悩みが解決されている。そう考え、そう信じることは、ネガティブな思考・感情を持たないということだ。持つ必要が無い、持っても名前を言えば(唱えれば)直ぐに解決されるというのだ。

まさにポジティブ思考と同じだ。自分がポジティブになる言葉やしぐさを決めて、ネガティブになりそうな時、その言葉やしぐさをつぶやいたりやってみたりすること(これはNLPのやり方)と同じだ。

他の宗教では、厳密な作法や日常生活での善行が求められている。〇〇を食べてはいけない、礼拝をしなければならないとか、姦淫してはならないとか、親に孝行しなければならない、などなど。

実は、そうした宗教的ルールは宗教が生まれた時から少しずつ複雑になり厳格になって行ったが、時々カリスマが現れてそれを打ち砕いてきた。

例えばキリスト。それまで、攻撃してきた敵には相応の復習をすべきだという報復の考え方を、右のほほを打たれたら左のほほをだせ、とか、隣人を愛せよ、とか姦淫を犯した者を石で打つのなら、そういったことを想像もしたことのない純粋な者だけが許されると言ったりして、「愛」の重要性を訴え、「愛」を自らの中に生み出し豊かにせよと言った。

同様に親鸞は、どれだけ修行しても悟りの境地に行けない自分に絶望したが、仏が夢に現れ救ってくれたという経験から、どうしようもない自分のような未熟な人間を救ってくれるのが仏であり、仏はそれを仏自らの誓いとして存在しているのだ、だから未熟なまま妻帯もするし坊主頭にもならず、普通の人びとと同じ地平でひたすら生きて行くことしかできないのだ。善行をする者よりも善行を出来ずに悩みにまみれている人(悪人)こそ、仏は自らの存在意義をかけて救ってくれるという考えを示した。これらの考えは今までの宗教の考えを足元からひっくり返す考え方だ。・・・だから、迫害され、処刑され、身分をはく奪され、遠方へ飛ばされたりした。

そう、言いたいことは、宗教の時代(科学の未発達な時代)から、現代(科学の発達した時代)に変わっても、大切なのはどういう概念を持つかということなのだ。

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