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2021年9月20日

浄土真宗では、人間として生まれたことをありがたくうれしく思おうと言っている。

人間として生まれたから、さまざまなことを感じ、悩みを持つのも畜生に生まれず人間として生まれたからこそなのだから、それを素晴らしいチャンスと捉え、喜びをもって生きて行こう、死の問題はすでに解決されているのだから、日々の生活に全力を注ぐ、そんな人生を全うせよ、と言っている。

これは、もはや宗教ではなく、人生哲学に近い。だから、日本で最大数の信者を得られ、武士に収奪され統治されるのではなく、農民を中心とした信者で武士を追い出し、国を自治したのだろうと思う。今生きている時こそ大切な時間なのだ、生きている者がこの世で浄土を作り出すのだという思想だ。

さてさて、脱線し続けているが、閑話休題の最初は「本番の来ない人生」ということだった。「死」が「本番」なのだろうと思ったが、その「本番」はすでに解決されているから「本番」ではない。今生きることが「本番」なのだということに行きついた感じだ。

何の変哲もない日常こそが「本番」なのだ。

「本番」をどう生きるのか=どういう生活を営むのか、が生きる意味・生きる意義となったのだ。

それは「神」に近い者、生産力の根源(奴隷・土地・お金=資本)をより多く持っている者、武力を持っている者、という人々をトップとした序列、権力構造、をどう認識するかということが重要な問題となる。

そういう人たちを素晴らしい人として認識し、自らを同様の立場に立つために日々努力するのか、そうではなくキリストや親鸞の様に従来の価値観をひっくり返し、すべての人々を人間として公平・平等な存在として認識しその実現のために日々努力するのかということだ。

時々、「人間は本来〇〇の存在だ」「本来の人間社会に戻るべきだ」「現在の人間は、人間らしさを忘れてしまっている。失った人間らしさを取り戻さなければならない」という人達が居る。宗教家にも多くいるし、社会活動をしている人にも多くいる。

しかし、よく考えてみると「本来の人間らしさ」がどのようなものなのか、よくわからないのが実情だ。

みやじいが考えるのは、「人間らしさ発達主義」と呼んで良いのか、人間らしさも人間社会の進歩発達に沿って進歩発達してきていると考える。人間はもともと「神」も持たず、序列もなく、複雑な言葉も持たず、お金も持っていなかった。武器は、大型動物と対峙する時のために持っていたにすぎない。その時代の「人間らしさ」と「神」を持った時の「人間らしさ」と、富を収奪するもしくは守るために人間同士殺し合いを始めた時の「人間らしさ」と、科学が発展し地球の裏側にいる人間同士がコミュニケーションが取れるようになった時代の「人間らしさ」は、同じではなく大きく変わっている。

その「人間らしさ」が、歴史に沿ってどう変化してきたのかを考えるのが、今は中断している、「社会史への妄想(」=「人間らしさの変化の妄想」「精神史の妄想」)をすることだ。

次回からまた妄想してみよう。

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