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2021年10月1日

棋士やサッカーのプロだけではない。ちびっこ博士と言われる子供たちが沢山いる。野菜に詳しい子、魚に詳しい子、精密画を描く子、天才と言われる歌姫などなど、小さい時から好きなことに集中し、才能を開花する子供たちが沢山存在している。そうした子供たちに全員の子供たちがなれる環境になる。どういう子供たちに育って行くのか、どんな社会が新しく生まれるのかワクワクする。

人間の進歩は、何を目指しているのか。人間とは何かという問いの答えを見つけ、証明することだ。それは、何度も言っているが、物質の誕生と物質運動の方向性と意味を証明することだ。

視点を物質という遠い存在から、人間という身近な視点に移すと、その問いは「人間らしさ」とは何かという問いになる。人としての行動規範がなんであるかという問い、その答えが「人倫」「倫理」、さらに「法」「法律」というものだ。

それも時代によって変わって来ている。また、宗教では戒律となり宗教ごとに異なる、民族によっても異なる。太平洋戦争時の日本においても、現代日本と全く異なるルール・価値観がついこの前まであった。

例えば、「目には目を、歯には歯を」という法律(バビロニアのハムラビ法典 5000年前)から、人柱として建造物のために生きている人を殺した(それは、みんなのために犠牲者を決め実行することが正しいという考え方だ)、それはついこの前の日本でも、特攻隊という犠牲者を生み出す思想として気高い生き方だと教え込まれていた。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓は、多数の突撃玉砕で死者を生み出した。それが最も美しく素晴らしい生き方(倫理)として教えられ、教えの通りに実行された。そして死んで行った。

死よりも素晴らしい生き方だという教えだ。それは「美しい国」に通ずる。人はそのために生まれ、生きているのだろうか?  こうした生き方に関する価値観は、子供の時から様々な文化を通して教え込まれている。現代の日本では、マンガやアニメやJ-POPからの学びが多い。誰かに恋し愛し、その人を守るために戦う、海賊王を目指すルフィ―は仲間のためであり、竈門炭治郎は妹のため、ミカサは人類のためだ。誰かのために戦うことはかっこよく正しいことだと知らず知らずに楽しさと共に知識となり、価値観、生き方として脳に刻み込まれていく。

こうして、フロイトが発見した、人の中の無意識としての超自我という価値観の塊が出来て行く。それは時にカントの理性として、完全を求める科学の根本として思考を始める。そう、大人になって気づいた時にはすでに遅いのだ。脳内の神経細胞は成長が終わり、神経ネットワークも出来上がり、何度も何度も意識されることで繋がりは太く強くなり、その考え方価値観が何から出来上がって来たのかを探ることができなくなっている。パソコンで言えば、アプリをつくりあげる機械言語がどうやって出来ているかを、三国志シリーズのアプリで探るようなものだ。

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