“幸せ”について考える:ワークライフバランスを超え"仕事"を再定義する
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最近は幸せに生きることを考えている。幸せは与えられるものではなく、自ら見出し、作り出すものだ。なぜなら、幸せは人それぞれ異なるものであり、自分自身に問うことでしかその内実を明らかにすることができないからである。
自分の人生の目的を「自分が幸せになるため」と定義するならば、必然的に「私にとっての幸せとは何か」という問いに直面することになる。この問いから逃げずに少しずつ向き合い続けることが生きる上で重要だと思う。
多くの人は、年齢を重ねるに連れてこういったことを考えることが難しくなってくる。少し嫌な言い方をすれば、考える時間と心の余裕が乏しくなるように社会が仕向けている。それにどれだけ抵抗するかは、すなわち「自身の幸福を追求すること=自分だけの人生を主体的に生きること」に直結すると思う。
社会に流されすぎてはいけない。それは望まない残業や飲み会を避けることももちろんそうだろうが、それより見落とされがちなのは、例えば望まない資格勉強とか、社内政治的な振る舞いとか、そういったものである。

自分の話をすると、最近は「仕事の中でいかに自己実現に近づけるか」を考えている。いわゆるワークライフバランスとは反対の考え方で、むしろ「ワーク」と「ライフ」を切り分けず、「ライフ」の中の「ワーク」として位置付ける。おそらくこれ自体はそこまでマイナーな考え方ではないと思っている。
そもそも、「ワーク」と「ライフ」を分ける発想には賛同しかねる。そこには「ワーク」を余暇を含む生活に必要なお金を稼ぐこととしてのみ捉える考えがあるように思われる。端的に言えば、「仕事の時間はたくさん我慢して、その分休みの日に遊びましょう」ということだ。似たところで「高収入の人は量、質的に人より我慢している」という考えも現代社会の中に浸透していると思う。
確かに、人より大変な仕事をする人により多くのお金が渡るべきなのは間違いないが、ここで問題にしたいのは「仕事は苦労や我慢を伴うものであらねばならないのか?」という根本的な問いである。これは決して「仕事は苦労や我慢を伴うことを避けられない」という言説を否定しにかかるものではない。今の社会では後者の言説を曲解して「仕事は苦労や我慢を伴うものなので、苦労や我慢をしなければならない」とよくわからない論理で人々の負荷を余計に増やしてはいないだろうか。その「余計な負荷」を排除、あるいは低減すべきというのが私の主張である。

結局のところ、私が結論にしたい主張は過去の記事で書いたことと全く同じで、一人ひとりが、個人の得意なことで他者に貢献できる社会を作り上げるべきである。社会に生きる上では、苦手なことの克服ももちろん必要である。しかしそれは周り全てが苦手なことばかりに囲まれなければ達成できないことではない。むしろ現状は、そういった環境を用意することで精神的な負荷が大きくなりすぎた結果、病的な症状に繋がってしまうケースが多いのではないか。その人の得意なフィールドから一歩先にある「苦手な(しかし仕事において重要な)こと」の克服に向かうことは、過剰な自信喪失に陥りにくい、目標(リターン)が明確である、得意なことの拡張につながるためモチベーションを保ちやすい、などの理由から有力な手法と考える。

正直な話、自分がそのような形で働きたいだけ、自分のやりたいことを仕事にしたいだけ、と言われればそうなのだが、他のほとんどの人にとっても同じ考えではないだろうか。
「仕事」は社会に貢献するという目的において、もっと自由でいいと思う。今の学生は昔よりずっと多様な経験を得やすい環境に恵まれているだけに、それを活かす環境を整備することが重要だ。そして個人としては、自身の得意分野を見出し、言うなれば「楽に」働ける働き方を実践することがその人自身の幸福(を追求するための時間確保)に、ひいては社会全体の幸福に貢献すると考えるのである。


(本記事は玄徳の個人noteとのクロスポストです。)

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