幸せについて考える3:"私にとっての幸せ"を考える
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この記事は以下2つの記事の続きです。よければ先にご覧ください。

「私の人生にとっての幸せ」の二つ目の定義は「他者に寄り添い、その人の変化をサポートすること」である。
ここで「サポート」という言葉は単純に支援する・助けるという意味とは少し異なる。
「サポート」の対象である人が例えば何かに挑戦するとき、その人自身の主体性を損うことのないように支援する、という多少複雑な支援のあり方をそう呼んでいる。
理由は、その人の自己効力感、平たく言えば自信をつけてもらうためだ。
自分の力で成功したこと、失敗したことのどちらも今後の糧となる。重要なのは「自分の力で」何かに取り組んだかどうかだ。
たとえ支援者の力でどれだけ成功体験を積み重ねたとしても、被支援者自身の経験に、自信には繋がらない。その難しさを心得た上で支援者は「サポート」に努めなければならない。
念の為、極端に課題が難しい場合など、支援者が一部の取り組みを代行するべき場合もある。つまり支援者が、被支援者の成功・失敗の機会を奪うことが正当化されることもある。ただしその前提には、支援者がその判断に対ししかるべき説明ができるということがある。

上に書いた通り、自分は相当に支援者としての意識が強いようである。
それはなぜか、心の内に問えば答えはすぐに出てくる。適切(と思われるよう)なサポートによって誰かの成長に携わるということに、強い「幸福感」を感じているからである。
昔から人が好きだ。
特定個人、というわけではなく、自分と関わる人みんなを好きでありたい意識が先に立っているタイプだと思っている。
ちなみに見知らぬ人に優しくできるか、と言われればNoである。それは正直なところ、単純にどう声をかけていいか分からなかったり、逆に声をかけられてもどうすればいいか分からなくなってしまうからで、嫌だからというわけではない。
短く言うと、自分から交友関係を広げるのが苦手な代わりに、ご縁あって近づけた人はなるべく大切にしていきたい。そういう考え方の人間である。
その中でも特に「後輩」にあたる立場の人たちに対して、適切なサポートをもって関わり、後輩たちの「幸せ」に携わりたい。それが私の幸せだからである。

これはある意味で、前記事で挙げた「私にとっての幸せ」定義の要約である「自己満足から起こした行動が、少数でも他者の気づきや楽しみとして結実すること」に類似しているが、少し違う。
むしろ逆で「他者の成長に寄与することが、自己満足につながる」という言い方になるだろう。
ここで、自分にとってサポートには自己満足の側面があることから、サポートに際してはいわゆるおせっかいに注意する必要がある。
たとえば、相手が改善が必要と感じていない要素を(自分の目から見た)欠点として取り上げ指摘し、サポートを開始してはならない。文章にすると当然のことだが、この手の取り組みが好きな人にとってはよくやってしまいがちで、割とよく見かける光景ではないかと思う。
「私にとっての幸せ」を追求するにおいて、その前提には公共の福祉、つまり他者に迷惑をかけないことがある(すなわち一般的な自由の前提である)。
それに自分自身の幸せを考えても、やはり人の幸せを損なってまで自己満足を追求したくはないと思う。
すでに書いたように、相手の幸せこそが真の自己満足であり、幸せであることをきっちり認識して行動する必要がある。

はじめに、自分が人生という総体における幸せについて考えると書いた。
その理由は「何のために私は生きているのか」という自己への問いであるとも書いた。
そして、それを考える中でこのような行動の指針、注意点を得ることができた。
ここに書かれた注意点自体は私自身にのみ適用されるべきもので、その他の人にとってたいした役に立つものではない。
しかし、このような検討を進めて得られた結果を共有することが、「私にとっての幸せ」の検討などという一見無価値に思える試みの意味を伝えられることにつながっていると信じたい。
それは「何のために生きているのか」の言語化であり、また日常生活へのほんの少しの具体化である。
しかしどんなに僅かでも、日常の行動が自らの描く幸せに向かっている、という感覚はあるに越したことはないだろう。
さらに言えば、それを自ら見出した、という疑い得ない事実が他でもない自分自身を勇気づけてくれるはずだ。

あなたの「私にとっての幸せ」はなんですか?

考えるきっかけになれば幸いである。


(本記事は玄徳の個人noteとのクロスポストです。)

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