"幸せ"について考える2:自分自身のために生きる
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以前の記事で同様のテーマについて考えた時は、仕事の方面に思考が傾いていった。
それを悪いと思っているわけでもないが、今回はもう少し総合的に、人生における幸せについて考えてみたい。

そもそも、なぜ幸せについて考えるのか。
それはおそらく、今を生きる自分自身が、そして少なくない他者が「何のために私は生きているのか」と自己に問うているからである。


「社会への貢献」が「生きること」の必要条件とみなされ、またさまざまな「あるべき社会への貢献」が喧伝される現在において、「社会に貢献する生きがいのある他者」と「社会に貢献している実感のない自己」との対比が多くの個人に生じている。


「社会に貢献する生きがいのある他者」というフィクションは、なかなか消えない。多くの大人はそのフィクションを土台に生き抜き、また無意識にその幻想を再生産するからである。
加えてそのフィクションは常に現代社会をリードする人物たちによって維持されており、特に強固である。
となれば、このフィクション自体を素直に飲み込むかは別として、やはり「社会に貢献している実感」を得られるよう努力することが合理的だと判断される。
そこで生じるのは、「何のために私は生きているのか」という問いそのものである。

話が前後したが、私はこの問いの答えこそ今回のテーマである「幸せ」だと思う。
ただし重要なのは「他者にとっての幸せ」ではなく「私にとっての幸せ」を追求することだ。
なぜなら単純に、人間個人は誰のために生きるべきか、という問いに対し、その人自身以外に妥当に思える答えがないからだ。
「私は私自身の幸せのために生きている」と全ての人が言える社会は一つの理想であるが、意外なほどその実現は難しい。
だからこそ、意識的に自分自身にとっての「幸せ」について考え、それを追求しようとする姿勢が大切ではないか。
そこで、ここからは実際に筆者自身の「幸せ」について考えていく。

とはいえ「幸せ」という言葉自体にも様々な理解があるだろう。
自分自身も幸せといえばとにかく美味しいものを食べている時の表情が真っ先にイメージされる。
しかし、それでは単なる快楽主義に陥ってしまうので、「私(筆者)にとっての幸せ」の定義を導入したい。
自分なりに考えて、いったん「自らが満足(納得)する形で、自ら何かに働きかけ、何事かを成すこと」としてみた。
当然ながら、この定義は、誰もが自由に考えて良いものである。「私の人生にとって」という但し書きがついているからである。
自分がこのように定義した意図としては、一つは三大欲求から離れること(経験上それらが真の幸せとは思えなかったため)、もう一つはどちらかというとマズローの欲求階層の上位である「承認欲求」「自己実現の欲求」を「幸せ」の意味に引きつけようとしたことが挙げられる。
また「何事かを成す」にはそれによって周囲の人々に何らかのインパクト(感動)を生むことも含意させている。
端的に言うと「自己満足から起こした行動が、少数でも他者の気づきや楽しみとして結実すること」という感じである。

この文脈で言えば、自身のこれまでの制作活動はほぼ全て「幸せ」のためだった、ということになる。
ハンドフルートという特殊な楽器をはじめたのは、自身の自己肯定感の低さ、具体的には周りの人と能力を比べすぎるために他の人がすでに習熟しているであろう楽器を新たにはじめられない当時の性格からだった。
その結果、自分のハンドフルートは自分の好きな曲を好きなように奏でる手段となり、それ自体が楽しみとなった(これ自体も自己満足という「幸せ」の一つだと思う)。
その自己満足を動画にして投稿したのは13年ほど前、もうかれこれ人生の半分近くを動画投稿者として活動していることになる。
自分が好きな曲を好きなように吹いた音源をアーカイブしたものが、コメントで良い評価をいただいたり固定のリスナーにもついていただける。自分の動画を見てハンドフルートを始めた人にも出会った。
このように、ただの自己満足にすぎない動画が、誰かの人生をほんの少し豊かにしたり、動かしたりしていることが大きな感動であり、幸せだった。

これに限らず自分が「何かを作る」という時は、常にこの幸せへの期待が頭の片隅にあるのだ、と自信を持って言える。
先の演奏動画以外にも、ラジオをはじめいろいろなものを作ってきた。
それらはその道のプロから見れば当然、稚拙なものだ。しかし自己満足が目的だから、それで構わない。しかし自己満足だからといって、独りよがりにはならない。
数は少なくても自分が好きで、自分が面白いと思ったものを、同じように他の人にもそう感じてもらいたい。
私の自己満足の産物が誰かに理解され、共感され、楽しんでもらえること。それが私にとっての幸せである。

文字数が増えてきたので、いったん本記事はここまでとさせていただく。
「幸せ」は一つではない。一つの定義に収める必要性すらない。「私の人生にとっての幸せ」は自由である。
次回はこれまでとはまた別の幸せの話を続けたい。
今回が「自分で作る」ことによる幸せの話なら、次回は「誰かに作らせる」ことによって得られうる幸せについて話そう。


(本記事は玄徳の個人noteとのクロスポストです。)

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