解離性障害と、その実態について考える【げんとくの文集2020その3】
スポンサーリンク

本文の前に

この文章は、げんとくの2020年度文集を何回かに分けて投稿する、第3回です。
(本記事で公開するにあたって一部変更点があります)

「文集って何?」という方はこちらへ!

第2回は3章の「増えていく」より「3-3, ますだ他人格の基礎的解釈」を掲載します。
自身の経験から、解離性障害についていくつか考察した内容を述べています。

3-3, ますだ他人格の基礎的解釈

さて、読み手としてはこれからのますだ及びその愉快な他人格と自分の織りなすストーリー的な話が気になるかもしれないが、それはまだ保留にさせて欲しい。ますだにおける解離性障害の基礎的な解説を加えるタイミングはここしかないと考えるからだ。

ますだの場合、他人格と「頭の中で話をする」という概念が存在する。解離が明らかになった4月末はそういったことはできなかったが、時間が経つにつれ可能になっていった。

これができるかできないかは極めて大きな意味を持つ。ますだが表に出ている時、他人格は「中から見ることができる(こともある)」が、反対に他人格が表にいる時にますだはその光景を見ることはできない。先に述べたように大量の薬を手にしても、その行動を止めるどころか、知ることすらできない。それにますだは精神が一時的に不安定になる症状が見られている。他人格の時にその症状が起こった時にどのように対処するかなど、様々なケースにおいての事前打ち合わせが即座に行えるかは重要だ。

以前から通院していたメンタルクリニックでもそれを目標として位置付けられた。「統合」としての解決が難しいと認識する医療サイドにとって、「本人格による他人格のコントロール」が望まれる状態として目標とされたからだ。

「入れ替わり」と自分が呼ぶ人格交代は、一定の予兆の上で起こる。ますだ曰く「頭がざわざわする」という表現がそれにあたる。この感覚は全人格において共通なので、入れ替わり前後に自分が「頭がざわざわするか」質問するのはもはや恒例となった。

入れ替わるその瞬間は、端的に言って意識を失う。座っている時はもちろん、立っていても倒れ込む。ただし何らかの行動をしていたり、何かに集中している時は起こらないようだ。また倒れる場合も一定方向づけが行われているように感じる。つまり本人にとって安全な方向に倒れる傾向がある、と思われる。

興味深いのは、人格ごとに「できること」及びそのレベル感がそれぞれ違うことだ。その点は本当に別の人間が存在しているようだった。

例として、「文字を書く」ことが挙げられる。

自分は7月末にますだと会った時、誕生日プレゼントに加えて3人からの手紙を受け取った。「3人」というのはますだ、ごはん、ぼくの「3人格」のことである。

ますだの筆記は結構綺麗、くらい言っても誇張にはならないだろう。それに対しごはんの字は小学校低〜中学年くらいを思わせるようなものだ。具体的には筆圧強めで、カクカクした文字。本当に同じ手で書かれたのかと疑うほどである。そしてぼくはというと、なんとPCでタイピングした文字の印刷だった。ぼくは筆記ができないのであった。

それぞれ「できること」もそのレベル感も異なる人格たちは、それぞれに成長もしていく。例えばごはんは数ヶ月の出たり引っ込んだりの生活の中で、洗い物を覚えた。先に言及したごはんの筆記についても、彼女自身がわざわざ勉強して覚えたということだ。他には薬の飲み方や飲むタイミングなどは全ての人格の中で共有され、それらはますだの生活の安定に大きく貢献したと思われる。

実際、8月ごろには浮き沈みこそあるものの、入れ替わりのある生活としては他人格とも協力しながら、ある程度落ち着いたように思われた。

注意

※本記事はAsTobe 2020年度文集『STAND』より一部修正したものを掲載しています。

スポンサーリンク

Twitterでフォローしよう

オススメ記事