私と社会の関わりについて
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この文章は、2021年度AsTobe文集より一部を抜粋したものです。

「文集って何?」という人はこちらへ!

今回はジョンソンの文集から一部を抜粋してお送りします!


自分のイメージでも、そのものの意味でも、「希望」と「絶望」は未来に対して適用する言葉だ。「希望」とは、この先自分が取るべき手であり、それが見えている状態が「希望がある」ということなのだと思う。逆に、それが見えていなければ「絶望している」のだ。

その意味で、自分自身にはある程度希望を持っている状態だと思う。やるべきこともやりたいこともたくさんで、幸いそれを実現できそうな能力も身についている。ただ一つ、自分と大衆との関わり方についてはわりあい絶望している。ここでは身近な、顔の見える人ではなく、社会を構成している顔の見えない人々のことを大衆とする。

大衆の視野が狭くなっているように感じている。また、それによって孤立感を感じる、孤立してしまう人が多くなっている気がする。最近の大きな事件の犯人(たとえばジョーカーに仮装して無差別に危害を加えた人など)の供述を見ていると、あまりに生きている世界が狭すぎて悲しくなる。人は生きていくにつれて世界観が広くなって、最初は家族だけだったのが、市単位の地域、地方、国家、世界と広がっていく、それらと自分とのつながりを形成し、働きかけていくものだと思うが、最近の犯罪者からはそういった世界の広がりが感じられない。

殺人をはじめとする犯罪は、いわばその人の認識世界の破壊だと思う。だから、その人がどのような罪を犯すかによって、その人の世界観がわかる。誰ともつながりを持てていないから、無差別に殺人を起こす。学校までで世界が閉じているから、恨みのある生徒を殺す。

「物騒な世の中になった」という人がいるが、今は情報伝達がスムーズになり、どこで起きた事件も容易に知ることができるようになっただけで、そういった罪を犯す個体は昔からいたはずだ。自分は、むしろ犯罪のスケールがどんどん小さくなっていることから、大衆の視野の狭まり、人と人との関わりの薄まりを感じてしまって、やるせなくなる。今年はそういうことを考えることが多かった。

そして、それに対する具体的なアプローチを見つけられていない。いつ自分が何らかの標的にされるかもしれないと思いながら何もできない。これは絶望だ。自分の人生に横槍を入れられる前に、悪い芽は摘み取っておかなければならない。

だから、少なくとも勉強はしておこうと思う。未来を予測するために歴史を学んだり、人の心の機微をつかむために文学を嗜んだり。

多分自分はこれから社会の歯車になって、その過程ですり減っていくだろう。でもそうやって社会を回すのも、すべて自分のためなのだと思う。

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