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2021年11月01日

自分が「神」によって創られているとしたら、自分が考えることは「神」は想定しているはずだ。なぜなら万能だから。それが許されないのは、不完全な意思と思考を持つ者になってしまったから。知恵の実を食べて。知恵の実を蛇の誘惑に負けて食べてしまうということが想定出来ない未熟さが「神」にあるということだ。だから、罰して楽園から追放する、という思考も子供っぽい考え方だ。(こんな風に「神」を蔑んでいてはいけない。また罰が与えられる。「神」からではなく、「神」を信じている信者から。)

というより、知恵の実を食べ、意思を持った人間であるということの方が重要だ。自らの生き方を自らの意志で切り開いて行くという独立した存在であるという証を「神」から与えられたということだ。「神」が父親のように全てを決めてそのように生活し、「神」を父親のように尊敬し従うという関係性は、家父長制度そのものだ。その思考形態・価値観が絶対的な社会を人間は作っていて、暮らしていたのだろう。だから、「神」を信じ従えと。

だが、何度でも書こう、知恵の実を食べて自らの意志をすでに人間は得たのだ。自由に考え行動できる知能を身につけたのだ。はからずも聖書に書いてしまったのだ。自由に行動すると罰すると。つまりは逆に言えば、人間は自由に行動できる身になったのだ。

「神」の鎖をといて、何をしても良いのだ。父親の言うことを聞かなくても構わないのだ。女性は男性の言いなりにならなくて構わなくなったのだ。(家父長制度は男尊女卑の思想と一体化している。この制度では女性には何の権利もなく、父親の所有物となっていた。)

女性は男にとっての性欲の処理相手であり、子どもを産み育てる者でしかなく、結婚は父親の地位向上や財産取得のために物として取引される、そう言った意味での大切な宝のような所有物だった。

「神」の視点から、人間を捉えなおしてみると、こんな風に見えてくる。人間て、意外と自由なのだ。結構社会の中の関係にがんじがらめになっているものなんだ、と思えてくる。どうしようもなくダメなヤツという自分への評価ってかなりいい加減なものなのかもしれない。情けないヤツなんだって評価しなくても良いかもしれない。

ここからが新しい課題だ。自由に生きて良いと言われても、どう生きていったら良いのだろうか。何をしても構わないと言われても、何をしたら良いのだろうか?

そう、小さい時から、あれをしてはいけないこれをしてはいけない、そんなものは捨てなさい、勉強だけをしなさいと言われて育てられた者に、いきなり好きにしても構わないと言われても、どうして良いか途方に暮れるだけだ。・・・だが、これが自由の自由たるものなのだ。自分が何をしたいのかということから始めるしかない。

キャリアコンサルタントをしていて一番に出てくるサポートが、「あなたは何がしたいですか?」という問いだ。わからないと答えてきたら、何が好きですか?逆にどんなことが嫌いですか?と、「自己理解」を深めていく。自分探しの探検、「自己探索」だ。今、色んな所に若者のプロがいる。彼らは、自分は何が好きで何に熱中するかを知っている。

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