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2021年12月16日

“こころ”の成長とは何か、という問いだった。

昨日書いたように、心理学者は“こころ”の本質は“良い”方向へ成長していく。それを妨げる何かがあって、歪み、歪んだ結果苦悩し、他者とのコミュニケーションや関係性が悪化すると捉えていると書いた。

人間の“こころ”を、性善説・性悪説の二元論で語ることが一般的によくおこなわれている。殊に、何か犯罪が起きた時に、その犯人を咎めようとした時に、それを行うべき法律が決まっていないために裁けないことがある時。現在でも1日の当選した権利で国会議員に100万円支給されたことが問題になっている。法律には問題があるとは書いていないということで、問題になっている。

これもそもそも想定していない法律を作ったということで、社会的ルールからして、人びとがそんなずるがしこいことをしないという性善説にたって法律・社会的ルールを作っているからで、人々全員が善人ではないのだから、性悪説に立ってルールは決めるべきだ、みたいな意見が出て来ている。

“こころ”は、二元論で言い表せるほど単純ではない。“こころ”は、言葉と経験のモザイクだ。そのモザイクも一瞬で色もデザインも変わるようなものだ。

それでも、根本は良くなりたいと思い願っている存在だと言える。なぜなら、人間は

悪を犯すものだという考え方自体が、性善説だからだ。悪が当たり前なら、その行いを悪だとは言わない。悪ではなく、あたりまえのことだ。例えば空気を吸うこと吐き出すこと。これは悪ではなく当たり前のことだ。食べ物を食べる、これも当たり前のことで、悪ではない。が、ある思想から見ると、動物を食べることは悪だということになる。それは、動くものは生き続けたいと思って逃げる。それを捉えて食べることはその命を殺すことになる。それは同じ動物としてはならない。という仏教の思想を持つ“人”はそれを悪という。

ブッダが悟りをひらき、その教えを広げてから、動物を食べることは殺生といって悪となった。これは、悟りをひらき仏という魂の高みに向かうために生まれた“こころ”の思想だ。“こころ”が、仏という最高レベルになるという思い、最高の善をなす存在になるというポジティブな志向が、人間の本性として存在するからに他ならない。悪を見つけ、悪を憎み、悪を遠ざけ、悪をなさないという思いが、人間の生きるための食べるという行為を悪と呼んだのだ。性悪説を唱える人の“こころ”も、性善説に善を為そうという意思があるために、性悪説を唱えているに過ぎないと思う。

ただ、悪を為してしまう人もいるし、悪を犯してしまう状況に置かれてしまう時もある。だから、法を作り、法に基づいて裁き、罪の償いをさせる。これは皆、性善説の“こころ”が存在しているということによってなされている人間社会だ。その罪も、人間の“こころ”の成長に応じて変化している。死刑が当たり前、さらにはその死骸をさらすという刑罰は、現在の大半の国々が廃止している。最高刑が終身刑になっている。(日本にはまだ死刑が残っている数少ない国のひとつだ。)刑罰を見ることでも“こころ”の成長がみられる。

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