スポンサーリンク

2021年10月30日

 “人”とは何か?

今の若者は人間とは何かというという問いについてどう考えているのだろうか?若者はまずそんな問いを立てることすらない、というのが本当だろうか。こういう問いを立てる人は、何らかの問題を抱えているか、生き辛い環境にいるとか、楽しめない状況にあるとか、大きな失敗や挫折を体験したとか、そういった負の経験や環境の場合が多いと思う。

ニュースなどを見ていると、そうした負の経験や負の環境にいる子供達や若者が多いように思ってしまう。明確な犯罪数は減っているようだけど、いじめやネットでの誹謗中傷、コロナで起きている引きこもりやDVなどによる若者の自殺が増えているようだ。

そうなっていると、当然、自分は何?何者?人間て何?と考えてしまう若者が増えているように思わざるを得ない。というより、なぜ自分は大切にされないの?なぜみんな私を無視するの?なぜみんないじめるの?なぜ私の言葉を聴いてくれないの?私は間違っている?私はおかしいの?私は居てはならない人間なの?ひとりぼっち。孤独。愛されていない。大切に思われていない。という自分の気持ちの中に思いは向いてしまう。

自分も若い時はそうだった。そうした自分の“こころ”の負の中に落ち込んでしまってた。何度も落ち込み、もがき、苦しんだ。なかなか自分を肯定できずに、すねて生きてきた。これから自分はどう生きていったら良いのかということの答えが見えず、不安になり悩んだ。宗教には答えを見つけ出せなかった、というより最終的には納得が出来なかった。

こうした自分の負の感情の底なし沼から抜け出すために取った戦略は、自分が神の高さから見つめることだ。作られた存在として、悩に悲しみ生きて行くのが辛いと負の感情の沼に溺れるのではなく、作った「神」の視点で捉えなおすことだ。神を信じるのではなく、神の意図を考えるのだ。

「神」である私は、なぜおまえのような人間を作ったのか?お前(人間)に何を望んでいるのか。お前(人間)に何をして欲しいと思っているのか。お前(人間)にどうなって欲しいと思って作ったのか。・・・「神」になって考える。・・・神の思し召しを想像する。

キリスト教の聖書は、「神」を信じない者は救われない、滅ぼされ、「神」を信じるものだけを救い繫栄させるとしていた。それが「神」との契約、「神」を信じきる、という約束だった。それが納得できなかった。神が人間を作ったのなら、作った者・創造主としての責任を取れ。信じない者は切り捨てるというのは、あまりにも情けないみみっちい“こころ”の持ち主だ。今でなら、ペットを飼ったけど育てきれないと言って捨てる人のような“こころ”の持ち主だ。そんな「神」を信じろと言われても、ムリムリとなった。

「神」を信じ切れない、でも自分は苦しいままだ。どうすれば良い?

人間が創られたものならば、創った者の意図を考えてみよう、と考えることがこの苦しみから抜け出す方法のひとつかもしれないと考えた。自分の苦しみの“こころ”から抜け出し、一段高い所から“こころ”を眺めてみる、という方法だ。

スポンサーリンク

Twitterでフォローしよう

オススメ記事