2021年10月31日
「神」の視点で“人”とは何か?を問う。「神」である私は、なぜ人間を創ったのか?
この問いは、自分自身に対する生き方の問いである。どう生きていきたいのかという、今は苦しい状況だが、その解決に向けた希望への問いでもある。
日本の神々は、古事記によると、まず混沌の中に自ら生まれ、その後男と女の一対の神が7代現れた。神が理由もなく現れたことから始まる。しかも自然に男女の対の神が現れ、7代目のイザナギとイザナミの二人が、セックスをして島々を産み落としたとある。(最初の子は奇形児だったとされている。流産したのかもしれない。)
島々を産み落とした後、様々な神を生みだしたとされる。我々のような人間・庶民はどうやって生まれたかは書かれていないようだ。とにかく神々を生み出し、食糧となる五穀も生み出した、とある。ここで描かれているのは、とにかく生み育て地に満ちて行くことだけが願いのようだ。自然の中で神々に見守られ、五穀を育み海の幸をとり、蚕を育て絹をとり衣服を作り、はたを織り、社を建てる。そんな歴史だ。
聖書では、神はすでに存在しており、言葉を発して天と地と、光と闇を現せ、空を創り、大地と海、太陽と月と星を創り、植物と魚と鳥を創り、獣と家畜と最後に人を創った。その後神はアダム一人では良くないとイブを創った。なぜ創ったかは書いていない。神は完璧な存在と言われているが、蛇の言葉を信じ(だまされと書かれている)誘惑に負けて知恵の実のリンゴを食べた。何という不完全な存在の人間を創ったものだろう。それは何故か?わざと誘惑に負け知恵をつけるものとなるものを創ったのか。それとも、ただのバカしか創れなかったのか。だとすれば、神も未熟な創造主だ。
それより、もともと神に忠実な何も知らない純朴な神の姿をした動物だっただけなのかも知れない。それが、時間を経て、蛇と語り、イブと語り、知恵の実を食べようという意思を持つまでに自我を持つ存在に「成長」したのかもしれない。もし成長したのだとすれば、変化成長する存在を創ったのだ。もし変化する存在が神の思し召しならば、知恵の実を食べ自ら考え行動する意思を持った存在なのだ。その自立した意思は、神の思し召しに依存する思考とは異なる独自の意思となる。神の掌を飛び出し自由な存在となる。
「神」は何を意図して人間を創ったのか?人間にどうなって欲しいのか?どう生きていってほしいと思っているのか?神をたたえる存在なのか?神だけでは寂しいから、自分に似せて人間を創り、同じ形をしている人間に褒めたたえて欲しいと思っているのか?自分の子供、それも1歳や2歳くらいの何もわからない、知恵の実をまだ食べていない子供から、お父さんすごい!と言ってもらい、すがって欲しいのか?神はそんなに承認が欲しい存在なのか?なんと人間的な存在なのだろう。
こんな風に考えて行くことは、宗教的考えからすれば畏れ多いことだが、知恵の実をかじり自立した人間としては当然のことだ。自立した人間は、冷静に科学的に物事を観察し理論を見い出し、人間の世界観を作り始めているということだ。