2021年10月27日
未来の選挙の妄想 民主主義のために
民主主義を社会に生かすために、教育と学びがポイントになる。
民主主義って何?という問いを立て、その答えを探す教育・学びを創り出す。自分で問いを立て、自分でそれを見つけ、それを実践することで証明する。そういう人間になることを目的とした教育が、民主主義を広げていくためには必要だ。
「答えを教えろ、教えたらその通りやるよ」という考え方がすでに主体性を放棄し、権威主義、専制主義の生き方、依存性の高い人間になっていると理解するしかない。複数の人間が、これが正解だと言ったとした、依存性の高い人は、どちらが偉いのかで判断する。もちろん、偉い人、有名な人、お金持ちな人が言っていることを「正しい」と選ぶことが多い。理由は、そう考えれば自分も偉くなれる、有名になれる、金持ちになれると思ってしまうからだ。
これが権威主義の考え方だ。そして自分がその考えを誰かに伝える時は、自分の考えとしてではなく、偉い誰それが言っているから正しいのだとしか言えない。それを聞いている人が、なるほどと思うのならばその人も同様に権威主義的な者であると言える。これでは、民主主義は広がらない。
どうすればその状態から抜け出せるのかは、後で考えてみたい。
教育は、これが正解だと答えを教えるスタイルでは、民主主義は育たない。民主主義は自分が作り、共同して実現していくものだからだ。自分が作るという主体性が根本になる。
権威主義や専制主義では、権威を持っている者、身分制度のトップに立っている者が「正しい」ものを作る、それをただ覚えて「正しく」暮らしていくのだという法を作り決めて、それを上から下へ降ろしていく。
だから、その「正解」をただ知り、覚え、実践するだけでは主体性は生まれない。従順な人民が生まれる。権威主義と専制主義を学び身につけて実践する者、お上に依存する民が生まれる。お上やお殿様に感謝を述べる良き人々が生まれる。彼らが一番大切にしているのは天下泰平だ。民衆の社会が平穏であることだ。
確かに万民の万民による戦いの世界ではなく、偉い人が天辺に居て睨みを利かして、犯罪の発生を抑える社会は安心感安全感がある。それが社会進歩のひとつの姿だ。天辺に誰がどんな人が立つかによって時代は変わってきた。「神」に仕える者、武力と富を持った者(王と呼ばれる彼らは「神」の子孫と名のった、その後子孫ではないが「神」からこの地位を与えられたと言い放った)、その後王よりも強い武力と富を持ち、人民の代表と呼ばれる者がその地位に立った(唯一の権力者=独裁者となった)、現在は経済的に莫大な富を持つ者が代弁者としての権力者を選挙というシステムで選出し操っている。
もう一度、問いを立て直してみよう。人類は、物質運動の発展として変化進歩成長しているのだろうか?もし、変化進歩成長しているのならば、それは何らかの方向性を持っているのだろうか?民主主義はそのベクトルのどの位置なのか?
「みやじいのひとりごと」は今後も不定期に掲載予定です。
どうぞお楽しみに!