「みやじいのひとりごと」はAsTobe最年長(67歳!)メンバーのみやじいが、日々考えたことをつらつらと書き綴るエッセイです。
第2回のテーマは「人生についての問い」
どれだけ生きても、逃れることができないものがあるのですね。
それでは、本文に入ります。
みやじいのひとりごと2「夕陽を見ながらも」
2021年7月22日
60歳になって、『あれっ?もう人生を生きて来てしまっているじゃないか!』と感じた時、今までの生きて行く課題「これからどう生きて行くか」という問いの解に到達する前に、あっけなく消えてしまった。
人生の問いの解を見つけ、その答え通りに生きて行かなければという焦りが消えた。おいしいスイカを作って食べようと思いながら、育て方を勉強していて、気づいたら季節が秋も終わり、冬になりかけていたという感じかなぁ。笑うしかない。
青春はすでに遠く、日差しは弱く、枯れ葉が散り始め、夕陽が紅く、、、あぁ、青春映画なら孤独な青年が夕陽を眺めているイメージか、、、(笑)ただ、その髪には白髪が混じっている、そう、青年は気づいたら老人になってしまったのだ、、、
ただ、青年としての人生の問いは、正解を見つけられることなく、もう見つける必要性が消えた。それは、悩む時間、苦悩する時間からは解放されたということだ。
その気づきから、もういつ死んでも良いかな、後は死ぬしかないな、という思いがまとわりつき始めたのだ。
それから、しばらくして死を感じるような病気(脳内出血)になり、手術を受けた。当初は手術は嫌だと思っていた。失敗したらどうしようという不安はなく、死ぬかもという思いがあった。それでも良いかなと思った。が、退院するには手術が必要だということになり、受けることにした。幸い、手術は成功し生き延びている。その後しばらくして、さらに別の病気(肺腫瘍)が見つかり手術した。まだ生き延びている。死んでも良いかと思い始めてから、何度も生き伸ばされている。ありがたいことでもある。生き続けている。
最近、新たな問いが生まれて来た。それは、「これからどう生きて行くか」という問いだ。青春の時の問いと同じ言葉だが、個人的には意味合いが違う。生きて行くということが、日々の暮らし、日々の24時間をどう過ごしていくかというニュアンス(色合い・香り・味わい)の問いになった。焦りはない。穏やかに終焉の時を待つというイメージなのかもしれない。そう、映画の長いエンドロールを眺めながら、ストーリーを振り返る時間というものなのかもしれない。そんな時間で得られるものは「納得感」だ。良い映画だった、エピソードを思い出しながら、味わい直し、良い映画だったと思う時間でもある。
で、最近さらに思うのは、映画館を出てからどうするかという問いが生まれて来た。
そう、人生はまだ続くのだ。死ぬことも無く、医療で生かされて、生き続けて行かなければならないのだ。これが余生なのか。そうだ、人生への諦めなのだ。諦めてもなお人生が続くのだ。そのことに気づいた。 そして、人生の時間を過ごすためには、つまり生きて行くためには、やはりどう生きて行くかという問いが必要なのだ、ということに気づいた。人間の脳という器官の機能が働き続けるのだ。まさに死ぬまで。心臓という器官が拍動を続けるように、脳という器官は問いを立て、解を求めるのだ。人として「どう生きて行くか」と。