みやじいのひとりごと8「閑話休題」
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「みやじいのひとりごと」はAsTobe最年長(67歳!)メンバーのみやじいが、日々考えたことをつらつらと書き綴るエッセイです。

第8回のテーマは、「死」や「社会制度」などを行ったり来たり。

こういった文章にこそみやじいの思考のエッセンスがにじみ出ているように感じます。

それでは、本文に入ります。

みやじいのひとりごと8「閑話休題」

2021年9月18日

今、退職して、生協も辞めて、仕事らしい仕事を全くやめて、3,4名の方々のカウンセリングやコーチングを月に一回ずつ行っている程度の日々を送っている。2か月に1回病院に行く。カレンダーの予定表は週に一つあるかないかという状態。スカスカな予定表だ。

一日中寝て居ようと思えば寝ていることができる。朝目が覚めても、二度寝、三度寝がし放題だ。朝5時半に起きて、バタバタと準備をして6時に家を出ていた時に比べると、なんという大らかでゆったりとした自由な時間だらけの「幸せな暮らし」なのだろうと思ってしまう。試験前の学生や、就職したばかりで緊張している人や、子育て中の人たちからすると、本当に羨ましいと思ってしまうだろう。

まさか、自分にこんな時間が溢れる日常が来るとは。と、うらやましい話で終わるかと思っていたら、そうでもない、実は。

昨日、ふと思った。この日常は本番の来ない日常なのだと。以前の自分には、“いつか”のために今日やるべきことをこなす、“いつか”“来るもの”の準備と練習を重ねるというのが毎日を過ごす思いだった。

“いつか”の“何か”のために、知識を吸収し、求められるレベルに達するために、そして「本番」で拍手をもらい、頑張ったね、素晴らしいと賞賛をもらうために、訓練し、練習し、課題を見つけ、対策を考え、実践してみる。それが人間として生きて行くという日常だと思っていた。楽しむのは、自分の力が試され、頑張りの成果が表れる「本番」が終わってからだ、と思っていた。

「本番」のために、すべての日常は準備期間としてあるのだと思っていた。

だが、だが、だが、今はその「本番」が無いのだ。

“いつか”は来ない。

「本番」の来ない未来。

“来るもの”が無くなったことに思いが至ったのだ。

「本番」の克服すべき課題も無くなった。課題が消えたから、対策を考える必要も無くなった。提出期限も無い。発表の場も無いから、発表の練習も必要が無い、「本番」に向かって克服すべき緊張も無い・・・永遠の練習期間の日常。

何の練習?もう課題は無いのに・・・新学期の来ない、永遠の夏休み。発表の場もない自由研究。毎日同じことを書き続ける日記帳。テーマの決まらない作文。毎日が遊びの日。

そんな日常だ。

・・・ここまで書いていて、あることに気づいた。“いつか”“来るべきもの”「本番」が何であるかに気づいた。そして、それがある宗教(哲学)の根源であることに。

何の約束もない、予定もない、「本番」のない日常に必ず“いつか”“来るもの”、それは「死」という終焉。

浄土宗、浄土真宗という日本の宗教がある。その教えが「死」との向かい方だ。一番大切な「死」については、すでに仏が解決している。ただ、阿弥陀仏を信じなさい、というものだ。「死」という「本番」をどう迎えるか。面白いテーマを思いついた昨日だった。

またいつか、さらに深く書いてみよう。

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