2021年7月26日
青年期の発達課題は、親密さか孤立、それによって「愛」が獲得されると言われている。
先日のNHKのヒューマニエンスという番組で、人の感情や好み、パートナーとして相手を選ぶ時に、腸内細菌が大きく影響しているということが言われていた。ビフィズス菌とか言われているのが代表的な細菌だ。それが何万種類もあるそうで、一兆個も腸内に住んでいるそうだ。それらが、それぞれ餌を消化分解してできた物質が、フェロモン(匂い)として異性を呼び込んだり好ましいと思う相手を選んだり、または腸の神経細胞から直接脳の神経細胞にシグナルを送り、幸せホルモン(脳内物質)であるセロトニンを分泌させると言っていた。
恋が訳の分からない感情と言われるのは無理もないと思ってしまった。「愛」も意識して生まれるものではないということだ。残念ではあるが、ストーカーも訳の分からない衝動惟よって動かされているのかもしれない。相手を欲しがる強い情念、昔はそれが小説や演劇・歌舞伎の題材となっていた。女性が火をつけ大火事を起こしたり、蛇になって釣鐘に隠れた男を釣鐘に巻きつき書き殺したり、源氏物語では夜中に女性が寝ている所に押し入り有無を言わせず、ことをしたりしている。今ではそれは犯罪だ。被害者の立場で考えるように「世間」や「社会」が変わってきたからだ。
セクハラもそうだ。私が最初の職場(大学生協の食堂)でも、女性のパートさんにうまく働いてもらうためには、パートさんを手なづけなければならないから、尻のひとつでも触ってあげることが重要だと言われた。正直、生協という民主的な組織の中でそんなことが言われることに非常に驚いた。でも、45年前の「世間的」にはそれが普通の感覚だったのだろう。
自分が何ものなのかの答えを探して、人として正しく生きるためにはどうしたら良いか、思想家の本や倫理学や宗教の本を読んだりした。思想家や倫理学者や宗教も「正しい」生き方を書いていた。しかし、思想家や倫理学者の言うような立派な人間ではないと自分は思った。そして宗教は、神が全てで、神の意思や仏(阿弥陀仏や毘盧遮那仏など)が、世界を作り、人を作り、煩悩と業を教えた。その証明を問いかけても、「信じる」ことから始まると言っていた。真理ではなく「信じる」ことで全てが真理となり真実となると言っていた。「信じる」その一線を飛び越えることができなかった。さ迷いは続いた。
今のような、科学的に人間とその生き方を考えるようになったきっかけは、大学生の時に読んだ、エンゲルスの「自然の弁証法」だった。弁証法はヘーゲルの人類の歴史は「正」「反」「合」のステップで物事が発展していくという理論。その発展するという考えを自然の歴史に用いた考え方で書かれた本だ。発表された1880年ころにはビックバンの理論は無かったが、星雲の運動から生命の誕生、動物の誕生から進化がかかれていて、そこに「自然がついに自分自身の意識にまで到達した」という文があった! 「物質の運動がついに自らの存在を問いかける意識を持つに至った」のだ。