2021年10月07日
「親ガチャ」、確かに子供は親を選べない。生まれたくて生まれたのでもない。気づいたら生まれていた。与えられたのは名前。これは重要だ。名前は自分と他者と区別するものであり、本来唯一のものだ。自分の特殊性、尊厳を証明するものでもある。だが、この名前も自分で決めたものではない。中世の武家社会では、何回も自分の名前を変えることができたが、普通の人庶民は一生ものであり一回こっきりの名前だ。ひどいのは女性は名前すらなかったと言われている。誰それの娘と言われていた。自分の個性を表現する唯一の存在の証明でもある名前も選べない。全て親が決めている。ある意味何もかも「親ガチャ」である。
選べないモノが他にもいくつかある。生物の宿命、生命体の目的、遺伝子のコピーと伝達と命の再生だ。生命体はこれがあって生命体と言われる。単なる物質ではなく、その物質の集合体でもなく、躍動する物質体なのだ。遺伝子という物質体の設計図とエネルギー代謝という物質の交換反応による新しいエネルギーの創出体なのだ。それは自らを再生し、数を増やし、「地に満ち」ているのだ。(聖書:創世記→5日目で生命体が創られ、6日目で男と女が創られ“産めよ、増えよ、地に満ちよ”と神は言われた。)
DNAは、2重螺旋で出来ていて、その片方が父親から、その片方が母親からのものだ。これは性をもつ生命体の宿命だ。親を選ぶことはできない。親ガチャは仕方がないことなのだ。
もう一つ、その男と女のふたつが合わさったDNAから出来上がる肉体の特性も当然選べないのだ。約2億の精子がまさしく生死をかけて仲間との競争に打ち勝ち、たどり着き合体して出来た新しい命の形はその合体で出来ているのだ。男であるのか女であるのか、大きい肉体なのか小さいのか、顔の構造も半分半分の合体だ。美男美女なのか普通なのか、それも本人は選べない。
まだある、誕生し育って行く環境、生まれた場所、地域、国、そして時代、も選べない。封建社会の農民に生まれていたら、知識を学校で学ぶという環境にはなかった。だから親ガチャで自分の人生は失敗だったという意識すら生じていない。農民は農民として生きて行くしかなかった。しかも長男を中心にその資産である田畑を守るしか生きていけなかった。今の若者が「親ガチャ」と言いながら自分の人生をあきらめるという思考は現代という時代、しかも日本という場所で生まれたからこそ考え言えるものなのだ。このことは、大多数の若者がそういうことを考えることができるまで、社会経済が発展し、教育が浸透してきているという時代の証明でもあると言える。 以前にも書いたが、人が大人(成人)になるために、3つの自己受容が必要なのだ。①個人の肉体(性)、②親との関係、③世間(≒社会:国+時代)の3つを、まずはどうしようもないものとして一旦は受け入れることからしか、大人になれない。市井三郎という哲学者の本に書いてあったと記憶している。(間違っているかもしれない)