2021年9月11日
話題として、あまり現実社会の出来事との関りを書きたくないと思っていたのだが、あまりにもドンピシャの話題があったので、関連して書いてみようと思ってしまった。(やはり結構いい加減で、まさに「徒然なるままに」だ。)
政治の世界の話。自由民主党の総裁選挙がもうすぐ行われることになったのだが、その総裁選に出馬する人の一人が、「日本の礎は長い伝統と歴史と文化に裏付けされた皇室と日本語だ」と言った。これは、自民党という保守政党に関わっている人たちの自己概念を表す言葉なのだと感じた。
自己概念については、この社会史の妄想の後に、個人としての妄想として整理して行こうと思っていたけど、今回少し書いてみようと思う。
ユングは、「集合的無意識」といって、その民族が引き継いできた文化も個人の意識に埋め込まれて自分を証明するアイデンティティの確立の基礎のひとつであると考えている。グーグルを調べるとアイデンティティは「国・民族・組織などある特定集団への帰属意識」と書かれていた。
以前書いていたけど、確かに我々日本人は日本語で思考しコミュニケーションをとり、日本語で自己概念を形成している。日本語の言葉の中に語順の中に表現される構成のすべてに、民族としてのこの地に生きて来た人々の感性と嗜好性と嫌気と恐怖と思考が刻まれ彩られ、からくりの謎の様に組み込まれている。日本人は日本語から成り立っていると言って良い。
しかし、その日本語も変化する。現代人はすでに平安や奈良の時代の言葉を知らない。古語として中学や高校で学ばなければ理解できないし、言葉の奥にある感情の色合いなども想像できない。「いとをかし」「もののあわれ」と言われても直ぐには理解できない。現代語でも分からない言葉が増えて来て入るけど。「ググる」は知ってたが「ググレカス」は知らなかった。進化している。「パリピ」は何とか知っていたが、「ちゅきぴ」とか「ぴえん」とか「ぽえん」とかは「あせあせ」です。((笑)草不可避wwwと言うそうです。)
脱線した。日本語が変わって来たし変わっていくのだから、その価値観や思想も変わっていくと考えるのが普通だ。しかし、自民党の年輩の方々はむしろそういった変化を嫌い否定し、古来からの価値観を重要視し守り抜こうとしている。(ま、それはそれで立派だと言えば立派なんだろう。別の言葉で言えば意固地になっていると言える。)
みやじいは、戦後の生まれで民主主義と平和主義を教育されて育って来た。それは日本国憲法で示されているものだ。もう古いと自民党の方々は言っているが、そうだろうか。 日本国憲法の前文は民主主義と自由と戦争放棄を一番最初に書いている。どこが古いのか?戦争を放棄する事か?これはむしろ人類の歴史に刻まれた希望なのだと思う。確かに戦争は無くなっていないが。無くなっていないから戦争放棄が古いのではない、無くなっていないからこそ憲法に書き込むことこそ新しいのだと思って育って来た。