2021年10月3日
物質運動史で捉えると、「神」は数万年前に人間がつくった妄想だ。その妄想が、人間の思考と行動を支配して来た。人間に価値観と序列を与え、集団としてまとまる力と論理を与え、生産力を高めた。高まった生産力で余剰生産物が多く生産され、直接衣食住など基本産業に従事しなくて済む人々が数多く生まれた。学問と芸術、芸能・娯楽に関わる人々だ。彼らは何を生産しているか?何を生み出しているのか。彼らの価値は何か?
彼らの生み出すものは、けっして「神」の神々しさだけではない。それにおさまらない。もっと自由なものだ。それこそ生きて来た目的と意味が含まれるものだ。逆説的だが、神々の与える「生きる意味=神に仕える価値」ではない。神々が考える「生きる意味は存在しない」ことを証明し、ひたすら生きているということを喜び、堪能し、歓声を上げる。“今”に生きる。
人間は、「遊ぶ」存在なのだ。遊ぶことこそ、生きる目的、生きている実感を持てるものなのだ。それが生産力を共同で高めて来た目的なのだ。
だから経済力が「遊んで生きる」のに十分達しているかどうかのみきわめは、どんな職業に人々が従事しているかの比率だ。生産力が低い時は、生きるために基本となる産業にほとんどの人びとが従事していた。日本ではついこの前までだ。戦後経済発展が起きて、1970年代に、第3次産業に従事している人々が50%をこえた。
その職種も、小売りや医療サービス業から金融関係に移動し、さらに、娯楽関係の映画・出版・スポーツ・イベント企画など楽しさ「感動」を生み出し、「感動」を売り込む仕事にシフトしている。現在の日本人はその感動を「消費」して、産業として支えているのだ。
人間の生きる意味は何か?物質運動史で捉えると、物質が自分が何者か問うているのだ。物質が運動を通して、関係性を密にして、孤独を克服する。物質が意識を生み出して、孤立して存在できないことを「実感」して、共同してこの問いに答えようとしている。それが、物質運動体としての人間の生きる目的であり、意味なのだ。それが「感動」か?
もう少し考え続けて行こう。「感動」を、かなり無理に作り出し、「消費」するのは、ストレスという生き辛さを感じているからに他ならないと言われている。生き辛さを多くの現代日本人が感じているといわれている。生き辛さの克服に「感動」が求められているのだ。
生き生きと生きる。それが生き辛さの反対の状態だ。生き生きと生きるには、「感動」が必要なのだ。「感動」=感情だ。論理的思考ではない。人間は「感情」で、生きる意味を感じ取る。物質運動は「感動」が最終形態なのか。「感動」という神経細胞の興奮が、脳内麻薬を分泌させて、脳が満足するのだ。そして納得する。納得が最後なのだ。納得とは自己や運命や出来事のすべて=原因を受け入れるということだ。それが最終結果。物語の終焉だ。(ここまで、話を飛躍させると、論文ではもはやなく、詩だ。ひらめいた言葉の羅列だ。理屈ではなく感じろ!とつぶやくことだ。まさに、ひとりごとをぶつぶつ、つぶやいているのだ。)