2021年11月14日
「無財の七施」は、庶民にとっての「人間らしさ」と言える。
一、眼施(がんせ)慈しみの眼、優しいまなざしで人に接すること
二、和顔施(わがんせ) いつも和やかに穏やかな笑顔で人と接すること
三、愛語施(あいごせ) 思いやりのある優しい言葉を使うこと
四、身施(しんせ) 人の嫌がる仕事を進んで気持ち良く行うこと
五、心施(しんせ) 他者に心配りを行い、他者の悲しみに共感すること
六、壮座施(そうざせ) 自分の場所を他者に譲ること
七、房舎施(ぼうしゃせ) 雨風をしのぐ場所を与えること
非常に細かく人々の行動について、書かれている。これらは、確かに財を持っていなくても日常生活の中で実践できることばかりだ。心がけをちゃんとやっていれば実践できる。機嫌が悪い時や、気分が落ち込んでいる時にできるかと言えば確かに難しいかもしれないが、そんなに知識や地位が無くても出来ることばかりだ。
そういえばキリストも右の頬を打たれたら左の頬を出しなさいとか、富を持った者は神の国に入るにはラクダが針の穴を通るより難しいといって、財をためるのではなくみんなのために使いなさいと言っていた。宗教は最初は庶民や貧困の人や差別され虐げられていた人たちに目を向け、その人たちの立場に立って擁護し、神の庇護を与えようとしていた。だから、権力者はカリスマ(教祖)を取り立てることも無く、時として弾圧する。
カリスマが無くなり、崇められ、教えが分かりやすく、素晴らしい存在として語り継がれ、最終的には「神」のように神聖な存在としてあがめられ、信者への弾圧の効果が無いとわかると、権力者は宗教を自分の権力維持のために抱き込む。僧侶に地位と報酬を与えると引き換えに国としての安定を支える側の者として働くことを求める。
それはなぜか。世界に広がった宗教(仏教・キリスト教・イスラム教)は、不正と言うような利他を唱えているからだ。利他が人間が人間と呼べる特性なのだ。動物のような子供を守るという血のつながり、自己のDNAの保存のために利己的に働くという狭い利他ではなく、困っている見ず知らずの他人に対しても手を差し伸べるという利他、さらには人間でない動物に対しても、池に落ち込んで抜け出せない鹿や、高い木に登って降りられなくなった子猫や、ふるい釣り針だらけになって餌を取れなくなった海亀などに対しても手を差し伸べるという利他の動物に、人間はなったのだ。これが人間らしさの特性なのだ。
物質と反物質がビッグバンで生じてから、クオークがまとまり陽子を作り、電子をまとらわせて原子を作った。陽子と電子と中性子がまとまって様々な原子となり、原子がまとまって分子を作った。その分子が化学反応(電子の交換)を行い大きくなり有機物質となった。その有機物質が熱エネルギーを取り込んで複雑になり新しい運動を生み出した。それが生物だ。生物はそれまでとは全く違った運動形態を創り出した。何と自らのコピーを創り出し、増えて行くという運動だ。