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2021年11月13日

人間が、その人を「人らしい人」と言う時、どういった行動をとった人に対してこの言葉を使っているのだろうか。また逆に「人でなし!」と叫ぶ相手はどんなことを行った人なのだろうか。

オリンピックの金メダリスト?東大やハーバード大やオックスフォード大学を首席で卒業した天才?300億円の価格を付けた絵画を描いた画家?300億円稼いだ映画監督?何兆円という富を一代で築いた実業家?そうした私財の100億円を寄付する人?ノーベル賞を授与した科学者?AIと争うような手を指す将棋の棋士?投手なのにホームラン王や盗塁の記録を塗り替えようとする野球選手?

これらの人たちは、確かに素晴らしい人であったり、とんでもない頭脳を持つ人、100年に一度のヒーローであったりする。天才だ。天才の中の天才と言って良いかもしれない。

でも、その偉業を成し遂げたことに対して、人として素晴らしいというような言葉は使わない。「人間らしさ」というものを、人々はもっと違う側面で判断し評価する。

川で溺れている人を、自ら川に飛び込んで救い出すといった英雄的な行動をする人だけでは無く、悲しんで泣いている子供を思わず抱きしめてしまったり、白い杖を持っている人に手を差し伸べサポートしてあげる人や、途方に暮れている人の呻きのような話をジッと聞いてあげる人といった、困っている人の気持ちを感じ取り、その気持ちに共感して、手を出してしまう人。自分のためではなく困ったり弱ったりしている人のために、感情を隠すことなく動いてしまう人を、人間らしいと言うことが多いと思う。

これまで、理性的に論理的に考えて行動することが人の社会の発展の方向性だというように書いてきた。が、「人間らしさ」は、理性的であるだけではないようだ。むしろ悲しみを抱き“こころ”と“こころ”を通わせる「普通」の人の方が「人間らしい」と言われている。

「無財の七施(むざいのしちせ・むざいのななせ)」という仏教の言葉がある。

財産(お金)も何も持っていない人ができる布施、他者への施しには七つあるという言葉だ。施しとは、上から目線でお金をめぐんで投げ与えるというものではなく、今それを必要としている人に必要なものを心をこめて与えるということ。それは菩薩の修行のひとつで仏になるために最も重要なものだと言われている。誰かのために何かを行う。それが仏教でも言われている、人として最も大切なもの「人間らしさ」なのだと思う。

布施には3種類がある。財施(お金や物資を与えること)・法施(教えを説いて聞かせること)・無畏施(恐怖や不安を取り除くこと)。だがこれは、財や権力や知識を持っている人ができる布施だ。

宗教が言い、人びとに求めるのは倫理と言われる、人の行動規範だ。一方で、権力と統合すると宗教は当初の価値観をひっくり返す。権力者を正当化し、普通の人を倫理で縛る。

「無財の七施」は、庶民に仏に近づく希望を与える行動規範だ。

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