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2021年9月21日

「人間らしさ」についての歴史は、どんな歴史だったのかは本当に興味深い。まだまだ知識が足らないと感じている。しかし、学者の論文ではないので気づいたまま書いて行く。

が、その前に、脱線をちょっとだけ続けてみたい。

いま生きることこそが大切だ。死ぬことは解決されているのだから。いつ来るか分からない未来の「本番」のために今日を過ごす必要はない。という考え方から「本番」としての今日の日常を生きて行く。

そう考えていたら、ふと思い出した謡曲がある。

「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ、遊ぶ子供の声聞けばわが身さへこそゆるがるれ」(梁塵秘抄:りょうじんひしょう)

<訳:遊びをしようと生まれてきたのだろうか。たわむれをしようとして生まれてきたのだろうか。無邪気に遊んでいる子供のはしゃぐ声を聞くと、大人である私の身体までもが、それにつられて自然と動き出してしまいそうだ。>

やらなければならないことなど何もなく、ただ楽しいことや面白いことだけを、何も気にすることなくやっている。そんな生き方が、日常の「本番」なのだろうかと思ってしまった。そういえば、ホモサピエンスに対して、ホモルーデンスという言葉があったことを思い出した。

ネットで調べてみたら、ホイジンガというオランダの歴史学者が作った言葉だった。意味は、「遊ぶ人」というもの。遊びこそが人間活動の本質であり、人間の文化はすべて遊びの中から生まれた。という1938年発表の学説だ。

その後、1958年にフランスのカイヨワという社会学者・編集者が、その学説を発展させ遊びを詳しく定義した。

遊びは、①自由意思にもとづいて行われ、②空間的時間的に隔離されており、③結果は未確定で、④ルールはあるが、⑤生活上どうしても必要なものではなく、⑥非生産的なものである。

結局、何の役にも立たない、それこそ糞の役にも立たない、時間と労力と知力と富の無駄遣いであると言っている。なんと、それが文化を生み出した宗教の儀式である「祭祀」も、遊びから生まれたと言っている。遊ぶ人が楽しいことが全てなのだ。

ちょっと前に、富が生まれて「神」が生まれたと書いたが、まさに、人類が生み出したその富を、自分たちで浪費するために祭事が営まれたのだ。あれは遊びの延長だったのだ。

なぜ、そんなことをしたのか?

答えは簡単。人類は「遊びをせんとや生まれけり」だったのだ。自分たちが食ってけるだけの食料を生産出来たら、親鸞の様に、あとは人間として生まれて来たことを喜び感謝し、遊ぶ!のだ。みんなで遊ぶ祭りをやるのだ。祭りが政になるのは、神官や王が自分たちを権威づけるために、みんなの遊びに仰々しいルールを作ったことから始まるのだ。

そう考えると、なんか気持ちがいい。

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